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十段目
梅ノ香の場〈参〉
しおりを挟むようやく、志鶴が口を開いた。
「……妻でなくて妾であらば、障りあるまいと思うておるようじゃな」
おのれが驚くほど、低く硬い声であった。今まで一度たりとも、出したことのないものだった。
梅ノ香が、びくり、と肩を揺らした。
まだ十八の志鶴に、手も足も出ぬほど威圧されていた。六つも上のはずなのに、梅ノ香は幼子のようにいたいけに見えた。
だが——男から見れば、思わず守ってやりとうなる姿であろう。
「浅はかにも、与力であらば妾の一人や二人、赦されるとでも思うておるのであろう。
わらわの生家も同じく与力の御家であるが……所詮、町方役人に過ぎぬ。さように得手勝手できるほど偉うはないわ」
梅ノ香をしかと見据えて、志鶴は冷たく告げた。
「そもそも、与力の御役目は代々続くものではないのじゃ。ゆえに、虎視眈々とその御役目を狙う者から、松波がいつ足元を掬われてもおかしゅうはない。現に、松波とおまえとのことは町家で噂になっておる。……もし、御奉行様の御耳に入らば、松波の御役目に障りが出るやもしれぬことがわからぬのか」
梅ノ香は唇を噛み締めていた。
奥方様はわざわざそれを云いに来たのだ、と悟った。
「……かつて、多聞さまのご母堂様から云われなんした。『おまえごとき穢れたおなごに、武家のなにがわかるというのか。それでも、多聞の妻になろうとする気か』と」
梅ノ香はその刹那、遠い目をした。
「確かに、二親とも百姓でなんしたわっちには、お武家様のことはようわからでなんし」
とうとう梅ノ香の大きな瞳から、ぽろぽろ…と涙があふれた。
「されど、多聞さまとわっちは十五の頃から、まだわっちがこないに身を売る前から……相惚れでいなんした。多聞さまもわっちも、まだ互いにまっさらな時分でありんす。確かにあれから身を売ったわっちは、穢れたおなごかもしれなんし。されど……多聞さまに捧げた心までは、一度たりとも売っておらでなんし」
梅ノ香の言葉に、志鶴はすぅーっと目を細めた。その美しくも冷ややかな表情は、まるで天女が下賤なこの世の者に放つかのごとき神々しさだった。
梅ノ香は天罰に触れたかのような心持ちになり、背筋が凍って、後ずさりしたくなった。
「た…多聞さまは御家のために、奥方様と夫婦になりなんした。ゆ…ゆえに、奥方様のわかっとられる多聞さまは、お武家様の多聞さまでありんす。……されど」
梅ノ香は震える声を励まして云った。「吉原の女郎の心意気」だけが、梅ノ香の味方だった。
「お武家様でない生身の多聞さまを、一番わかっとるんは……わっちなんし」
——あぁ、胸の奥が堪らなく、ふつふつ、とする。
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