上 下
53 / 81
十段目

梅ノ香の場〈壱〉

しおりを挟む

   志鶴を運ぶ駕籠かごかきの足が止まった。すぐさま駕籠が地に下ろされ、すだれが上がる。

   志鶴は駕籠から降りた。同心の姿が見えた。

——島村 尚之介だった。


「尚之介さま、此度こたびは御足労をおかけ申した」

   志鶴は頭を下げた。
   尚之介は静かに首を振った。

   くるわの方でも、吉原を受け持つ隠密同心には逆らえぬのであろう。
   本来ならば、上客との芝居見物などでもないと、女郎を外へは出さぬのだが「此度限り」という取り決めで、梅ノ香を料理茶屋へ連れ出すことをゆるした。

「……志鶴殿」
   尚之介の切れ長の澄みきった目が、志鶴をまっすぐに射抜いた。

「大儀ではないか」
   心に染み込むように響く低い声で、尚之介が尋ねる。相変わらず志鶴が痩せていたからだ。

   今度は志鶴が静かに首を振った。
   そして、料理茶屋の屋内へ足を踏み入れた。


゜゚・*:.。. .。.:*・゜゚・*:.。. .。.:*・゜゚


   志鶴が座敷へ入ると、下座でおなごが三つ指をついて出迎えた。すぐさま料理茶屋の女中が茶を運んできた以外は、もう座敷へはだれも入って来なかった。

「ようおいでになりなんし。わっちは、吉原は久喜萬字屋の梅ノ香でありんす」
   おなごは鈴のような声で名乗った。

   志鶴は涼しげな紗の打掛の裾をひらりと払って、上座にすっと腰を下ろした。

「松波 多聞の奥じゃ」
   凛とした声が座敷に響く。
   頭は下げない。名前も名乗る必要はない。身分が異なるからだ。


   吉原の廓の大見世おおみせには独特の云い回しがあって「ありんす」はほとんど使われない。
   語尾に付ける言葉がそれぞれの見世で異なり、松葉屋は「おす」、扇屋は「だんす」、丁字屋は「ざんす」、中萬字屋は「まし」、そして久喜萬字屋が「なんし」である。

   もちろん、客に「ほかとは違う特別な見世」と思い込ませて浮かれさせる狙いもある。
   だが、さようなこととは別に、女郎が逃げ出した際に「廓言葉」でおさとを知れさせるのに役立つ。

   たとえ、女郎がねんごろになった客と吉原の大門おおもんの外へ逃げ仰せたと思っても、ひとたび裏長屋の片隅で「廓言葉」を使えば、追っ手が血眼ちまなこで飛んできた。
   女郎たちは吉原に売られた際に、話す言葉までも売られていたのである。


   梅ノ香は、つぶし島田の髪に、柳鼠やなぎねずの大小あられの小袖を身にまとっていた。化粧は薄く、髪に挿されたかんざしなども小ぶりだった。

   吉原の女郎というと、もっと下卑げびた派手なで立ちとばかり思うておった志鶴には意外であった。
   もっとも、此処ここへは「お忍び」で参っておるがゆえ、かような身支度になっているのかもしれぬが。

   梅ノ香が顔を上げた。

   志鶴は、我が夫がかつて自ら妻にと所望した目の前をおなごを、とくと見た。
   なるほど、鈴木春信の浮世絵から飛び出てきたかのごとく、可憐で愛らしい風情ふぜいを漂わせていた。ちまたで飛ぶように売れている「清水の舞台より飛ぶ美人」などは梅ノ香そのものに見えた。

   つまり……志鶴の面影と重なった。

   いや、多聞にとっては、梅ノ香の面影に志鶴が重なったのだ。
 
——あぁ、胸の奥が、ふつふつ、とする。

しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

真田幸村の女たち

沙羅双樹
歴史・時代
六文銭、十勇士、日本一のつわもの……そうした言葉で有名な真田幸村ですが、幸村には正室の竹林院を始め、側室や娘など、何人もの女性がいて、いつも幸村を陰ながら支えていました。この話では、そうした女性たちにスポットを当てて、語っていきたいと思います。 なお、このお話はカクヨムで連載している「大坂燃ゆ~幸村を支えし女たち~」を大幅に加筆訂正して、読みやすくしたものです。

戦国を駆ける軍師・山本勘助の嫡男、山本雪之丞

沙羅双樹
歴史・時代
川中島の合戦で亡くなった軍師、山本勘助に嫡男がいた。その男は、山本雪之丞と言い、頭が良く、姿かたちも美しい若者であった。その日、信玄の館を訪れた雪之丞は、上洛の手段を考えている信玄に、「第二啄木鳥の戦法」を提案したのだった……。 この小説はカクヨムに連載中の「武田信玄上洛記」を大幅に加筆訂正したものです。より読みやすく面白く書き直しました。

覇者開闢に抗いし謀聖~宇喜多直家~

海土竜
歴史・時代
毛利元就・尼子経久と並び、三大謀聖に数えられた、その男の名は宇喜多直家。 強大な敵のひしめく中、生き残るために陰謀を巡らせ、守るために人を欺き、目的のためには手段を択ばず、力だけが覇を唱える戦国の世を、知略で生き抜いた彼の夢見た天下はどこにあったのか。

遅れてきた戦国武将 ~独眼竜 伊達政宗 天下を統一す~

bekichi
歴史・時代
霧深い夜に伊達家の屋敷で未来の大名、伊達政宗が生まれた。彼の誕生は家臣たちに歓喜と希望をもたらし、彼には多くの期待と責任が託された。政宗は風格と知恵に恵まれていたが、幼少期に天然痘により右目の視力を失う。この挫折は、彼が夢の中で龍に「龍眼」と囁かれた不安な夢に魘された夜に更なる意味を持つ。目覚めた後、政宗は失われた視力が実は特別な力、「龍眼」の始まりであることを理解し始める。この力で、彼は普通の人には見えないものを見ることができ、人々の真の感情や運命を見通すことができるようになった。虎哉宗乙の下で厳しい教育を受けながら、政宗はこの新たな力を使いこなし、自分の運命を掌握する道を見つけ出そうと決意する。しかし、その道は危険と陰謀に満ちており、政宗は自分と国の運命を変える壮大な物語の中心に立つことになる。

最終兵器陛下

城闕崇華研究所(呼称は「えねこ」でヨロ
歴史・時代
黒く漂う大海原・・・ 世界大戦中の近現代 戦いに次ぐ戦い 赤い血しぶきに 助けを求める悲鳴 一人の大統領の死をきっかけに 今、この戦いは始まらない・・・ 追記追伸 85/01/13,21:30付で解説と銘打った蛇足を追加。特に本文部分に支障の無い方は読まなくても構いません。

永き夜の遠の睡りの皆目醒め

七瀬京
歴史・時代
近藤勇の『首』が消えた……。 新撰組の局長として名を馳せた近藤勇は板橋で罪人として処刑されてから、その首を晒された。 しかし、その首が、ある日忽然と消えたのだった……。 近藤の『首』を巡り、過去と栄光と男たちの愛憎が交錯する。 首はどこにあるのか。 そして激動の時代、男たちはどこへ向かうのか……。 ※男性同士の恋愛表現がありますので苦手な方はご注意下さい

座頭の石《ざとうのいし》

とおのかげふみ
歴史・時代
盲目の男、石(いし)は、弦(つる)という女性と二人で旅を続けている。 旅の途中で、由(よし)と妙(たえ)の親子と知り合った二人は、山間の小さな宿場町に腰を下ろすことにした。 町の名は子毛(こげ)。その町には一人の八九三(やくざ)が居る。 多の屋助五郎(タノヤスケゴロウ)表向き商人を装うこの男に目を付けられた石。 その折、町は幕府から委託された大事業の河川工事の真っ只中。 棟梁を務める定吉(さだよし)は、由に執着する助五郎と対立を深めていく。 町に不満が高まる中、代官の跡取り問題が引き金となり助五郎は暴走する。 それは、定吉や由の親子そして弦がいる集落を破壊するということだった。 石は弦と由親子を、そして町で出会った人々をため助五郎一家に、たった一人で立ち向かうことになる。

腐れ外道の城

詠野ごりら
歴史・時代
戦国時代初期、険しい山脈に囲まれた国。樋野(ひの)でも狭い土地をめぐって争いがはじまっていた。 黒田三郎兵衛は反乱者、井藤十兵衛の鎮圧に向かっていた。

処理中です...