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十段目
梅ノ香の場〈壱〉
しおりを挟む志鶴を運ぶ駕籠かきの足が止まった。すぐさま駕籠が地に下ろされ、簾が上がる。
志鶴は駕籠から降りた。同心の姿が見えた。
——島村 尚之介だった。
「尚之介さま、此度は御足労をおかけ申した」
志鶴は頭を下げた。
尚之介は静かに首を振った。
廓の方でも、吉原を受け持つ隠密同心には逆らえぬのであろう。
本来ならば、上客との芝居見物などでもないと、女郎を外へは出さぬのだが「此度限り」という取り決めで、梅ノ香を料理茶屋へ連れ出すことを赦した。
「……志鶴殿」
尚之介の切れ長の澄みきった目が、志鶴をまっすぐに射抜いた。
「大儀ではないか」
心に染み込むように響く低い声で、尚之介が尋ねる。相変わらず志鶴が痩せていたからだ。
今度は志鶴が静かに首を振った。
そして、料理茶屋の屋内へ足を踏み入れた。
゜゚・*:.。. .。.:*・゜゚・*:.。. .。.:*・゜゚
志鶴が座敷へ入ると、下座でおなごが三つ指をついて出迎えた。すぐさま料理茶屋の女中が茶を運んできた以外は、もう座敷へはだれも入って来なかった。
「ようおいでになりなんし。わっちは、吉原は久喜萬字屋の梅ノ香でありんす」
おなごは鈴のような声で名乗った。
志鶴は涼しげな紗の打掛の裾をひらりと払って、上座にすっと腰を下ろした。
「松波 多聞の奥じゃ」
凛とした声が座敷に響く。
頭は下げない。名前も名乗る必要はない。身分が異なるからだ。
吉原の廓の大見世には独特の云い回しがあって「ありんす」はほとんど使われない。
語尾に付ける言葉がそれぞれの見世で異なり、松葉屋は「おす」、扇屋は「だんす」、丁字屋は「ざんす」、中萬字屋は「まし」、そして久喜萬字屋が「なんし」である。
もちろん、客に「ほかとは違う特別な見世」と思い込ませて浮かれさせる狙いもある。
だが、さようなこととは別に、女郎が逃げ出した際に「廓言葉」でお廓を知れさせるのに役立つ。
たとえ、女郎が懇ろになった客と吉原の大門の外へ逃げ仰せたと思っても、ひとたび裏長屋の片隅で「廓言葉」を使えば、追っ手が血眼で飛んできた。
女郎たちは吉原に売られた際に、話す言葉までも売られていたのである。
梅ノ香は、つぶし島田の髪に、柳鼠の大小あられの小袖を身に纏っていた。化粧は薄く、髪に挿された簪なども小ぶりだった。
吉原の女郎というと、もっと下卑た派手な出で立ちとばかり思うておった志鶴には意外であった。
もっとも、此処へは「お忍び」で参っておるがゆえ、かような身支度になっているのかもしれぬが。
梅ノ香が顔を上げた。
志鶴は、我が夫がかつて自ら妻にと所望した目の前をおなごを、とくと見た。
なるほど、鈴木春信の浮世絵から飛び出てきたかのごとく、可憐で愛らしい風情を漂わせていた。巷で飛ぶように売れている「清水の舞台より飛ぶ美人」などは梅ノ香そのものに見えた。
つまり……志鶴の面影と重なった。
いや、多聞にとっては、梅ノ香の面影に志鶴が重なったのだ。
——あぁ、胸の奥が、ふつふつ、とする。
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