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九段目
来今の場〈弐〉
しおりを挟む「……わたくしが隣の座敷で、耳をそばだてて聞き及んだことじゃ」
寿々乃が茶を一口含んだ。この座敷に入った際におせいが給仕した茶は、もうすっかり冷めていた。
「梅ノ香へは、うちの母上が話をつけに行ったのじゃ。……なにを話してきたのかは知らぬが、帰ってきたときの母上の顔は、まさに夜叉でござった」
あれからずいぶん経ったというのに、志鶴の顔を見るなり梅ノ香を思い起こすあたり、富士にしても忘れられぬ、辛く腹立たしいことであったのであろう。
「……義姉上さま、お話づらいことを教えてくださり、誠にありがとうござりまする」
志鶴は深々と頭を下げた。
そして、頭を上げたとき、ある決意を固めた。
——胸の奥がずっと、ふつふつ、していた。
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志鶴は寝静まる前、竃のある土間へ向かった。この二、三日、毎夜訪れているのだが、この夜ようやく願いが叶いそうだ。
土間では、おきくがただ一人、水仕事をしていた。
「……おきく」
すっと背後に寄った志鶴は、声を殺して告げた。
「『梅ノ香に会いたい』と言付けておくれ」
——あの方なら、かばかりで事足りるであろう。
町奉行所で吉原を受け持ち、面番所に詰めているのは隠密同心である。
ゆえに、あの方——島村 尚之介であらば、必ず手はずを整えてくれるであろうと、志鶴は考えた。
おきくは振り向きもしなかった。ただ前掛けで濡れた手を拭きながら、こくり、と肯いた。
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数日後、北町の佐久間の家から使いの者がやってきた。実家の母、志代の身体の具合がよくないと云う。
婚家に使いを出すのはよほどのことであろうと、夫の多聞も舅の源兵衛も、志鶴に早く帰るよう促した。
だが、志鶴は、
「どうせ、夏負けでござりましょう。毎年のことにてござりまする。それに、嫁入って半年も経たぬうちに、実家へなぞ戻れませぬ」
と、強情を張った。
しかし、実家からは駕籠までやってきていた。
多聞は宥めすかしたあと、ようやく志鶴を駕籠に乗せて送り出すことができた。
志鶴にはわかっていた。
乗った駕籠の行き先が、目と鼻の先の北町の組屋敷ではなく……
——梅ノ香がいる、深川だということを。
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