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九段目
往古の場〈陸〉
しおりを挟む「……父上」
多聞は座敷に入ってきた源兵衛に、いきなりひれ伏した。
「なんでぇ、藪から棒によ。気色の悪りぃ」
源兵衛は訝しげに息子を見つつも、どかっと腰を下ろした。
「松波 多聞、一世一代の頼みがあってござる」
多聞はひれ伏したまま告げる。
男子十五にしての立志だ。孔子先生も「吾十有五而志於学〈吾十有五にして学に志す〉」と云って、十五で己の進むべき道を定めたではないか。
「ある者を身請けして……我が妻にしとうござる」
「はぁ、『身請』だと……おめぇさん、まだ十五になったばっかで、んな言葉どこで覚えてきゃぁがった。それに、嫁取りたぁ、十年早ぇってのよ。寝惚けてんじゃねぇのか」
源兵衛の濃くて太い眉の片方が、ぴくりと上がった。
「どこぞの女郎に閨で骨抜きにされ、うめぇこと寝物語されて強請られたか、多聞」
ふんっ、と嘲るように嗤う。
「んなことのために、おりゃぁおめぇを吉原へ寄こしたんじゃねぇぜ」
そう云って、源兵衛は忌々しげに莨盆を手元に引き寄せた。煙管を取り上げ、一番上の抽斗から出した刻み莨を丸めて、雁首の火皿に置き、火入の炭火で焼べた。
そして、深く一服する。気を鎮めるためだった。
だが、どうやらうまく行きそうにない。肺の腑に含んだ煙は心のうちと同じで、いがいがするだけだ。
多聞は、がばっ、と身を起こした。
「父上、おさよは……さようなおなごではござらんっ」
刻が迫っているのだ。もういつ見世に出されても無理はない。早く、あの見世からおさよを救い出さねば……
——我が身しか知らぬ、あのなめらかな肌が、いろんな男たちの一夜の快楽のためだけの慰みものになってしまう。
多聞は気が狂いそうであった。
「起っきゃがれっ、多聞」
源兵衛は莨盆にある灰入の縁を、煙管で鋭く叩いた。カン、という響きとともに、役目を果たした刻み莨が、ぽとり、と灰入の中に落ちる。
「初めて惚れた女への熱に浮かされて、軽ぅく『身請』って云ってやがっけどよ。女郎一人、落籍かせんのに、どんだけ金を積まねぇといけねぇのか、おめぇ知ってんのか」
源兵衛には、今の多聞の心のさまが、手に取るがごとくわかった。焦りに焦る心持ちはお見通しだ。
実際に、あの夜から多聞とおさよは、人目を忍んで、幾度も身体を重ねていた。昼間しか会えぬから、互いに御役目や仕事の最中に、こそこそと抜け出していた。
初めて女を知った多聞は、おさよの身体にすっかり虜になっていた。
男であれば一度は通る道である。
女郎を「身請」するには、親元に支払った負い目(借金)の残り全額とそれに掛かる金利だけでなく「身代金」も要る。しかも、一括で払わねばならぬ。
身代金は、女郎の格とその見世での稼ぎ具合によって決まる。ゆえに、見世で重宝されているほど高くなる。
呼出(花魁)ならうんと低く見積もっても千両、振袖新造なら五百両、並みの女郎なら百両ほどが相場だ。宵越しの銭を持たぬ、というより持てない江戸の民にとっては途方もない額だった。
「それに、かようなことが奉行所に知れてみろ。先祖代々の与力の御役目が召し上げられるやもしれんぞ。……多聞、おめぇ、御先祖様に顔向けできるか」
多聞は唇を、きつく噛んだ。もし、御役目を召し上げられたら、この屋敷どころか組屋敷にも住めぬかもしれない。家人を路頭に迷わすことになる。
また、松波と関わる御家にも何らかの障りがあるやもしれぬ。
多聞一人の問題ではなかった。お武家の御家に、おいそれと女郎の嫁を迎えるわけにはいかないのだ。
「さりとてっ……父上っ」
なおも、多聞は喰い下った。
——おさよと約束したのだ。必ず迎えに行くから、待ってろよ、と。
そのとき、源兵衛の顔色が変わった。
「たわけっ、多聞、くどいわっ、いい加減、目を覚まさんかっ」
容赦のない屹然とした声が部屋を響かせた。
「しばし、頭を冷やせ。……おまえに蟄居を命ず」
有無も云わさぬ、一族郎党を預かる惣領の声だった。直ちに、座敷の外に控えている奉公人に合図を送る。
「お…おまえら……なにをするっ……無礼者っ……放さぬかっ」
たちまち、駆け寄ってきた中間たちに多聞は抑え込まれた。
「ち…父上っ、刻がありませぬっ。どうか、お解き放ちをっ」
多聞は必死で手足を動かしてもがいたが、多勢に無勢でどうすることもできなかった。
゜゚・*:.。. .。.:*・゜゚・*:.。. .。.:*・゜゚
翌日、南町奉行所 見習与力 松波 多聞より、「病気養生の為」しばらく奉行所の御役目の休仕を願う旨が、南町奉行所に上申された。
休仕のための期間は「半年間」で、休仕のための事由は「江戸患い」であった。
そして、その半年の間におさよは、吉原の久喜萬字屋の女郎——梅ノ香になった。
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