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九段目
来今の場〈壱〉
しおりを挟むある日、志鶴にまた、思いがけない人が訪ねてきた。
多聞の姉の寿々乃だった。
志鶴とは初対面だ。多聞と志鶴の祝言のとき、寿々乃は二人目の子を産んだばかりで産後の肥立ち悪しく、参列できなかったゆえだ。
姑の富士に似た気性ならば、気が重い。志鶴は腹に力を入れて、寿々乃の待つ座敷へ向かった。
「……義姉上様、お待たせして申し訳ありませぬ」
座敷に入った志鶴は、深々と一礼した。
そして顔を上げると、初めて義姉の顔を見て、息を飲んだ。
「……あら、なんと『北町小町』とは、しぃちゃんのことであったか」
向こうも驚いている。思いがけず、お互い見知った顔だった。
「御行儀見習」と称して、安芸広島新田藩の前藩主の奥方様が開いておられた手習所で、机を並べて励んでいた人だったのだ。
もっとも、志鶴より八つも歳上の寿々乃は、すでにお師匠である奥方様の「片腕」として、歳下の志鶴や初音の書いた文字に朱を入れる方であったが。
「寿々乃さまとは……すずちゃんでござったか」
志鶴はそう呟いて、ほうっ、と息を吐いた。
懐かしくて、ひとしきり昔話をしたあと、寿々乃は、にわかに表情を引き締めた。
母親の富士から受け継いだ面立ちだが、険がまったくないゆえ、むしろ多聞の方によく似ていた。美しき姉弟であった。
「此度の我が母のことは、たいそう申し訳なきことでござった」
神妙な顔で寿々乃は詫びた。
「わたくしがもっと早うに実家に顔を出しておらば、あないにしぃちゃんを苦しませずに済んだものを」
苦渋の面立ちで云う。
南町奉行所の内与力、水島 織部に嫁いで一男一女をもうけた寿々乃は、実家で実母からいらぬことを云われ養生するよりも、婚家で娘のおらぬ姑の至れり尽くせりの世話の方がずっと心地よかったのだ。
また、可愛い盛りの上の子や生まれたばかりの下の子を連れて実家へ帰ることになるゆえ、夫の水島が「さすれば、家の中が火の消えたごとく暗うなるではないか」と云って渋っていた。
そもそも、二人目の出産のときですら、実家には里帰りしなかったくらいだ。
「……母上には先刻、わたくしからもきつう云い及んだゆえ、どうか許してやってくれぬか」
手習所の時分から、寿々乃は曲がったことが大嫌いで、道理に合わぬことがあらば相手に拘らず筋を通していた。
「松波の血」であったのだな、と志鶴はしみじみ思った。
「許すもなにも、わたくしはなんとも思うてはおらぬゆえ……どうかもう、姑上様をお解き放ちくだされぬか」
さように家族の四方八方から責められては、流石に富士が不憫である。
「ほんに、しぃちゃんは相変わらずでござりまするなぁ」
寿々乃は少し呆れたように、ふっ、と表情を緩めた。
「それに、なぜ姑上様があないになられたかも、わかりましてござったゆえ」
志鶴は目を伏せた。
「……お千賀ちゃんが訪ねられたようであるな」
多聞と同じく、寿々乃は察しがよかった。
「なにか云われたか。あの子は綺麗な面立ちゆえに、周りから甘やかされて育っておって、他の者を慮るのに少々欠けておるからな」
実は、千賀も「奥方様の手習所」に参っておったのだが、初日にいきなり奥方様からその甘ったれた気性をこっ酷く叱られた。奥方様もまた、道理に合わぬことには容赦がなかった。
だが、心を鬼にして叱るのは、すべて千賀の行く先を慮ってのことである。
にもかかわらず、武家の子女でありながら、それまでろくに叱られたことのなかった千賀は、人前で叱責されたことに臍を曲げて、たった一日で姿を見せなくなったのだ。
ゆえに、志鶴は千賀のことをまったく覚えていなかった。
志鶴は首を左右に振った。
「千賀どのは悪うございませぬ。わたくしが……無理を云うたゆえ、教えてくださりましてござりまする」
「なるほど……それが、うちの母上がなにゆえそなたを邪険にしたのか、というのに通ずるのじゃな」
寿々乃はにやり、と不敵に笑った。
まるで「浮世絵与力」だ。誠にこの姉と弟は似ている。
「わたくしとしぃちゃんの仲じゃ。……ずばり、訊きまする」
寿々乃が志鶴をしかと見つめる。
「そなた……『梅ノ香』のことを聞き及んだのではあるまいか」
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