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九段目

往古の場〈伍〉

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   陰暦皐月さつきの末の、江戸に夏を告げる大川(隅田川)の川開きの初日には、川岸に料理茶屋から出された納涼船がずらりと浮かぶ。

   御公儀江戸幕府から、広小路にも大川端にも屋台を出店することを許されるから、老いも若きも、お武家も町家も百姓も、身を変装やつしてそぞろ歩く。身分を忘れた無礼講の夜だ。
   ゆえに、処々で喧嘩だの小競り合いだのがあるから、町奉行所の町役人は、南北問わず各所に駆り出された。


   ようやく、持ち場の御役目が御免となった。
   多聞は今朝、家人にはかような御役目のあと、そのまま出かけると云っておいた。

   気の置けぬ中間ちゅうげんには、 
「今宵は鍋二郎なべじろうと過ごすから」
   朝まで帰らぬことを告げると、なぜかニヤリとされた。

   鍋二郎とは、町の剣術道場に通っていた子どもの時分からの親友の名だ。
   実は、安芸広島新田しんでん藩の次期藩主・浅野 兵部少輔ひょうぶしょうゆうという雲の上のお人なのだが、どういうわけか馬が合って、元服して御公儀から官名を賜られても、未だに幼名で呼んでいた。
   今宵は、妹のたま姫と幼なじみで御殿医の娘の初音を連れて、両国橋へ花火を見に行くと云っていた。

   そして多聞は、はやる心持ちを隠しもせず、湯屋ゆうやでひとっ風呂浴びたあとに着た浴衣ゆかたの裾を翻しながら、吉原へ歩みを進めた。


   一方おさよは、かような日のくるわは猫の手も借りたいくらいの大賑わいで、朝からてんてこ舞いであった。
   次から次へと、ひっきりなしに仕事を云いつけられていた。ただ、今宵のことだけを胸に秘め、身体からだを動かし続けた。

   そして、ようやく廓の客が女郎の布団の中で寝静まる頃、どうにかこっそりと見世を抜け出すことができた。


   多聞が御役目で裏通りを見廻っている際に見かけた廃屋が、逢引の場だ。

   約束どおりやってきた互いの顔を見たら、どちらからともなく、初めて抱き合った。
   互いの顔を見つめ、ぎこちなく、くちびるを合わせる。

   一旦離れて、もう一度重ねたら……それからはもう止まらなくなった。

   おさよにとって、多聞が初めての男になったが、多聞にとっても、おさよが初めての女だった。

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