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八段目

仮宅の場〈肆〉

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   決して心を荒立てることのない志鶴が、めずらしく心を揺さぶられていた。

   あのあと、多聞とは一言も口をきいていない。晩酌をしていた座敷を出て、志鶴の部屋に入ってからもだ。

「……おい、どしたんでぃ」
   いつものように夜具の中で隣に横たわる志鶴に、多聞がやさしく訊く。

   志鶴はずっとせなを向けていた。

「志鶴……こっち向けってぇの」
   多聞はぐいっと、志鶴の身体からだを反転させる。

   なぜか、青白く強張こわばった顔がそこにあった。

   少しでもその顔色に赤みを取り戻させようと、多聞は志鶴を引き寄せ、くちびるを重ねた。

「……おしくだされ」
   志鶴は身を離して、冷たい目で睨んだ。声は真冬のように冷え切っていた。

   そして、寝返りを打ち、多聞にまた背を向けた。


   嫁入ってから三月が過ぎたというのに、志鶴は未だに生娘であった。
   食べてはいるつもりだが、やはり慣れない暮らしの中で志鶴の目方が思うようには増えぬゆえ、多聞がおもんぱかっているのだ。

   それでも、多聞とは御役目の宿直とのいのとき以外は、志鶴の自室にて同じ夜具で寝起きしている。
   たとえ月のさわりがあっても、必死で止めるのも聞かず、多聞は志鶴の夜具の中に入ってくるくらいなのだが……

   だが、多聞とて男だ。思うように妻を抱けぬのであらば、くるわ通いをするのも無理はない。

——致し方なきこと、であろうか。

なんであろう、この心持ちは……

——胸の奥が、ふつふつ、とする。


   嫁入り支度で日本橋へ行った折、往来で堂々と口を吸い合う尚之介と「後家」とを見たとき、志鶴は鼻の奥がつんとなるような「悲しい」思いはしたが、かような「ふつふつ」とした思いは抱かなかった。
   それは、尚之介が「御役目」であったことを、薄々感づいていたからであろうか。

   されども——今まで、敢えてあまり考えぬようにはしてきたが……

   あの頃、尚之介はきっと「御役目」を果たすために、あの「後家」とは人には云えぬ仲にまでなっていたはずだ。
   なぜなら、盗みの手の内も仲間もすべて、きれいさっぱり白状させたのだから……
   相手の女は尚之介に、すっかり身も心も許していたに違いない。

   にもかかわらず、志鶴の今の心持ちは——

   子どもの頃からすぐそこを歩いていた人が……いつの間にかうんと先をすたすた歩く、大人になってしまっていて……我が身一人だけが、子どものままで取り残されたかのような……

   さような——言うなれば「寂しい」という心持ちは、しみじみと感ずるけれども……

——やはり「ふつふつ」とはしなかった。


   志鶴が物げにしていると、後ろから、ふわり、と包み込むかのごとく多聞に抱きしめられた。

「……おめぇ、今日の昼間、どっかへ出かけたか」
   耳元で、多聞がささやくように訊く。心なしか、声が硬かった。

「玄丞先生のところへ、お薬をもらいに参ってござりまする」

   先達せんだって、多聞が御役目そっちのけで志鶴のために動いていたと、舅の源兵衛から聞かされたとき、おそれ多くてすっかり肝を冷やしてしまった。
   ゆえに、此度こたびは多聞には知らせていなかった。

「おせいだけでなく、ちゃんと中間ちゅうげんの供も連れて参ってござりまする。……旦那さまは、御役目をしかと果たしてくださりませ」

   するとその刹那、志鶴を抱きしめた多聞の腕に、ぎゅうぅっと力が籠った。

「……旦那さま……如何いかがなされ……」
   びっくりした志鶴が振り返ると同時に、多聞がひらりと志鶴の上に跨った。瞬く間に、多聞の顔が降ってきた。

   驚いてふわりと開いた志鶴のくちびるの奥に、多聞の熱い舌がねじ込まれる。

   そのあと、多聞はおのれの欲するままに任せて、志鶴の口をいつまでも吸い続けた。

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