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七段目

やつしの場〈弐〉

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   志鶴の兄と同い年で特に仲のよかった「あの方」は、代々北町奉行所で御奉行の側用人そばようにんを務める「内与力」の上條家の次男、上條 尚之介として生を受けた。

   武家として生まれたからには、御家おいえを受け継ぐのは長男である。次男以下は他家へ養子として出ない限り、実家におっては生涯結婚できず「部屋住み」という肩身の狭い立場で過ごさざるを得ない。

   しかし、上條 尚之介は、さような居候の「冷や飯喰い」をして一生を潰すつもりは毛頭なかった。

   他家へ養子として出るにあたって有利となるよう——その家の娘婿として入るのではなく、子のない家の嗣子しし(跡取り)として入れるように——剣術の稽古にも学問の修養にもできる限りの力を注いだ。

   ゆえに、町の剣術道場や手習所を飛び越えて、御公儀(江戸幕府)が旗本・御家人の子弟のために設けた其々それぞれの場に呼ばれるほどになっていた。

   だが、かように有能であれども、不運なことに与力を務める御家ではどこもすでに長男に恵まれていたため、養子を要するところはなかった。

   直参じきさん(幕臣)の家に生まれたときから、「公方くぼう様こそ主君なれ。公方様の他に主君なし」と叩き込まれてきた身としては辛いが、得意の剣術や学問を生かして諸国の藩主に召し抱えられ「藩士」となるのも致し方なきことか、と思い直していた矢先——

   突如、父親が卒中で呆気なくこの世を去った。

   父から内与力を引き継いだ兄の上條 広之進は、同じ北町奉行所の与力の御家から妻を娶ったばかりであった。

   そのような折、養子の口が来た。母親の遠縁で、同じ北町奉行所の者であった。
   跡継ぎどころか、子のまったくおらぬその島村家は、尚之介が幼き頃よりずっと、にも嗣子ししにしたいと申し入れしていたそうだ。

   されども、亡くなった父親が頑なに首を縦に振らなかったのには理由があった。
   島村家が与力の家ではなく——「同心」だったからだ。

   「同心」は、与力の配下で手足となって働くのが御役目だ。
   特に町の者たちにじかに関わる「町方同心」に就いたあかつきには、町家で厄介ごとが起こった際には、真っ先に現場に駆けつけ御役目を果たさねばならない。

   また、それらを無事に果たすためには、常日頃より岡っ引きや下っ引きなどの「手下」を自腹で雇って町家の情報を集めておかなければならない。
   岡っ引きなぞになるヤツらはすねに傷を持つ身であることが多いから、腹を探り合いながら付き合わねばならぬので、骨が折れた。

   つまり、与力がせぬ「汚れ仕事」を同心が一手に担っているのである。生家の「御奉行様の側仕そばづかえ」である内与力のような「綺麗きれぇ」な御役目とは雲泥の差であった。

   にもかかわらず、禄米が少ないのはもちろん、組屋敷も三百坪を超える与力の家に対して、同心の家は百坪あれば御の字だ。また、与力が認められている江戸府内での馬への騎乗は同心には許されていない。

   そして、これが父親が拒んだ一番の理由であったのだが——同心は御公儀(江戸幕府)が直轄する町奉行所の役人なのに——「士分」ではなかったのだ。

   同心は武家である「士分」と「町人」の間に属する身分であった。ゆえに、如何いかに手柄を立てようとも、決して、同心が与力に取り立てられることはない。

   また、尚之介自身にも、同心にはなりとうない理由があった。
   同心になれば「士分」である与力の御家からは、畏れ多くてもう妻女を娶ることができなくなってしまうからだ。

   しかし、父亡きあと、かようなことは云うておれなくなった。正式に家督を継いだ兄に負担をかけぬことは、即ち御家を守ることであった。

   尚之介の心に、年端も行かぬ少年の頃より見続けてきた、朋輩ほうはいの妹の顔がよぎる。与力の娘だった。もう手が届かなくなる。

——何のために、これまで必死の思いで剣にも学にも精進して参ったのか。

   だが、武家に生まれた者にとって「御家を守る」ことは、骨の髄まで染み込んでいた。

   上條 尚之介はとうとう首を縦に振った。

   そして——

   北町奉行所 隠密廻おんみつまわり同心 島村 尚之介になった。

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