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七段目
やつしの場〈壱〉
しおりを挟む朝餉も、昼餉も、夕餉も……
食べきれぬほどのお菜が、志鶴の箱膳の上には並んでいた。
姑の富士の云いつけで、志鶴を「無き者」として扱うよう命じられてきた奉公人たちの、せめてもの「罪滅ぼし」であった。
だが、志鶴はありがたや、とは思いつつも、胃の腑が小そうなってしまったがゆえ、とてもとてもすべては食べられなかった。
にもかかわらず、心配する夫の多聞からは毎日「ちゃんと喰うたか」と訊かれる。
こればかりは少しずつ元に戻して行くほかあるまい。ゆえに、まだ志鶴の目方も体力も元どおりではなかった。
しかし、医師の竹内 玄丞からは、八丁堀の組屋敷から出て気晴らしをするためにも、自身で薬を取りに来るよう云われていた。
武家のおなごの外出には普通、中間(武家に仕える下男)が供につくものであるが、此度はずっと駕籠での往き帰りであるため、志鶴は下働きの女中のおせいだけを連れて行こうと思った。
その日の朝、志鶴が請うと早速、其々の乗る駕籠が呼ばれた。
玄丞とその娘・初音が居を構える青山緑町には、安芸国の広島新田藩の御屋敷が隣接していた。
志鶴はかつて、その御屋敷にて先代の藩主の奥方様が武家の子女を相手に「御行儀見習」と称して開いていた手習所へ通っていた。
八丁堀から青山緑町へ向かう駕籠に揺られながら、志鶴はまだ年端も行かぬあの頃を、ぼんやりと思い起こしていた。
——そういえば、特に用があるようにも見えぬのに、なぜかまだ十代半ばでいらした兵部少輔さまが、再々見に来られておったな。
兵部少輔というのは、当代の藩主が公方(将軍)様より賜った官名である。
——おそらく、歳の離れた妹君である碧さまが御心配でござったのであろう。
碧姫は志鶴よりも二つ下で、身分の差にこだわらず姉のように慕ってくれた。その碧姫は先ごろ、周防国の徳山藩主である毛利 志摩守様にお輿入れになった。
゜゚・*:.。. .。.:*・゜゚・*:.。. .。.:*・゜゚
志鶴を運ぶ駕籠かきの足が止まった。
すぐさま駕籠が地に下ろされ、簾が上がる。
駕籠から降りた志鶴は振り返った。あとからついて来ているおせいの駕籠はまだのようだ。
目の前に仕舞屋があった。以前に、初音から仕事場と住まいを兼ねていると聞いていた。
志鶴は玄丞の宅に来たのは初めてだった。玄丞に診てもらうときは必ず、家まで往診してもらっていたゆえだ。
引き戸が開け放たれた仕舞屋に、足を踏み入れた。そして、訪いを告げようとした、その刹那——
すぐさま志鶴は、何者かにぐいっ、と引き寄せられた。思わず、前へつんのめりそうになる。
すると、咄嗟に、がしっとしただれかの腕によって支えられた。なにがなんだか訳がわからず、志鶴は腕の主を見上げる。
御納戸色の着物の上に裾を捲って角帯に手挟んだ紋付の黒羽織、裏白の紺足袋に雪駄履き。腰には二本、水平に差された大小の刀……
左右の鬢は町家の者のように膨らませず、すっきりと持ち上げられ、細い髷は高く結われた本多髷……
そして、なにより——
切れ長の目に、スッと鼻筋が通っていて、ちょっと薄めの唇……
「……志鶴殿」
心に染み込むように響く、低い声……
さらに——
志鶴をまっすぐに射抜いた、切れ長の澄みきった目……
——「あの方」であった。
「……上條さま」
と、志鶴は呟いた。
「もう、上條ではござらぬ。……島村だ」
口の端を歪めて、「あの方」は苦笑した。
「……尚之介さま」
志鶴はやはり、島村さま、とは呼べなかった。
「手荒な真似をしてすまぬ。ここは玄丞先生の住まいではござらぬ。おぬしの身になにがあったかを探るよう、おぬしの御父上、佐久間様より仕り参った次第でござる。……しばし、刻をもらえぬか」
尚之介はそう告げて、志鶴から手を離した。
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