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七段目

雪消の場〈壱〉

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   あくる日、新しく与えられた部屋はの方角に近いため、いくら朝に強くない志鶴でも、さんさんと差し込む朝日に起こされた。
   身支度をして、隣の夫の寝間へ参る。

   本来、夫婦めおと其々それぞれの寝間は、もっと離れている。
   皆が寝静まった宵闇の中、妻が夫の寝間へ呼ばれて参るのだが、夫婦の房事の有無を明らかにするその姿は、屋敷の者には見られとうないものである。
   特に、歳をとってかわやが近い舅や姑と廊下などで会わぬように、用心しながら参るものであるが……
 
  こうも夫婦の部屋が近いと、だれにも会うことはないが、その代わり毎晩房事があるからではないか、と思われはしないか。
   志鶴は恥ずかしさで赤くなり、それ以上の気まずさで今度は青くなった。

——わたくしはまだ、生娘であるというのに……

   だが、夫である多聞に訴えても、取るに足らぬことと一笑に付して頓着せぬであろう。
   志鶴は次第に、多聞の気質がわかってきていた。


「……旦那さま、お支度に参りましてござりまする」

   ふすまを開けると、ちょうど髪結いが多聞の髪を整え終わったところであった。
   与力や同心の心得として、毎朝出入りの髪結い屋に髪を整えさせていた。

   道具の後片付けをしていた髪結いが、顔を上げて志鶴を見た。

   その顔を見て——志鶴の息が止まった。

   切れ長の目に、スッと鼻筋が通っていて、ちょっと薄めの唇……

——まさか。

「あの方」であった。

——なぜ、ここに「あの方」が。何のために。

   志鶴は理由わけがわからなかった。

「志鶴、どうした」
   多聞が、ぼんやりしてぴくりとも動かない志鶴を見て怪訝な顔になる。

「も…申し訳ありませぬ」
   志鶴は弾かれたように、多聞の身支度に取りかかる。
   町奉行所に参る前に湯屋ゆうやへ出かけるのが与力の日課なので、寝間着から着流しに着替えるのだ。

「……では、若旦那、あっしはこれで」
   髪結いが多聞に声をかけた。

「おう、本日は急に悪かったな」
   多聞が髪結いをねぎらった。
「いえ……そいじゃぁ、明日はいつものヤツが来やすんで」

   おせいが縁側で茶を供する。
   髪結いが、おせいからもらった茶をくっと一飲みすると「ありがとよ」とニヤッと笑って湯呑みを返す。のっぺりした顔のおせいの頬が、たちまち朱に染まった。

   最後に、髪結いが志鶴を見た。

   「あの方」と志鶴の目が合う。
   切れ長の澄みきった目が、志鶴をまっすぐに射抜いた。

   その刹那、志鶴は悟った。

——わたくしの様子を見に来られた。

   志鶴の口の端が、目に見えるか見えないかのぎりぎりのところで、かすかに上がった。

——なんてことをなさるのか。ここは「南町」の「本丸」なのに。


「……御新造ごしんぞさん、失礼しやす」
   志鶴と目を合わせたまま「あの方」が一礼した。心に染み込むような響きの低い声だった。

「ご苦労さま」
   志鶴は、今度ははっきりとわかる笑顔を見せた。

——あれから、すっかり痩せ細ってしまったわたくしを見て、如何いかに思われたか。

   それよりも……

   丸まげを結い、眉を落としてお歯黒をつけ「人妻」になった姿を見て……

——あの方は、如何に、思われたのであろう。

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