上 下
28 / 81
七段目

雪消の場〈壱〉

しおりを挟む

   あくる日、新しく与えられた部屋はの方角に近いため、いくら朝に強くない志鶴でも、さんさんと差し込む朝日に起こされた。
   身支度をして、隣の夫の寝間へ参る。

   本来、夫婦めおと其々それぞれの寝間は、もっと離れている。
   皆が寝静まった宵闇の中、妻が夫の寝間へ呼ばれて参るのだが、夫婦の房事の有無を明らかにするその姿は、屋敷の者には見られとうないものである。
   特に、歳をとってかわやが近い舅や姑と廊下などで会わぬように、用心しながら参るものであるが……
 
  こうも夫婦の部屋が近いと、だれにも会うことはないが、その代わり毎晩房事があるからではないか、と思われはしないか。
   志鶴は恥ずかしさで赤くなり、それ以上の気まずさで今度は青くなった。

——わたくしはまだ、生娘であるというのに……

   だが、夫である多聞に訴えても、取るに足らぬことと一笑に付して頓着せぬであろう。
   志鶴は次第に、多聞の気質がわかってきていた。


「……旦那さま、お支度に参りましてござりまする」

   ふすまを開けると、ちょうど髪結いが多聞の髪を整え終わったところであった。
   与力や同心の心得として、毎朝出入りの髪結い屋に髪を整えさせていた。

   道具の後片付けをしていた髪結いが、顔を上げて志鶴を見た。

   その顔を見て——志鶴の息が止まった。

   切れ長の目に、スッと鼻筋が通っていて、ちょっと薄めの唇……

——まさか。

「あの方」であった。

——なぜ、ここに「あの方」が。何のために。

   志鶴は理由わけがわからなかった。

「志鶴、どうした」
   多聞が、ぼんやりしてぴくりとも動かない志鶴を見て怪訝な顔になる。

「も…申し訳ありませぬ」
   志鶴は弾かれたように、多聞の身支度に取りかかる。
   町奉行所に参る前に湯屋ゆうやへ出かけるのが与力の日課なので、寝間着から着流しに着替えるのだ。

「……では、若旦那、あっしはこれで」
   髪結いが多聞に声をかけた。

「おう、本日は急に悪かったな」
   多聞が髪結いをねぎらった。
「いえ……そいじゃぁ、明日はいつものヤツが来やすんで」

   おせいが縁側で茶を供する。
   髪結いが、おせいからもらった茶をくっと一飲みすると「ありがとよ」とニヤッと笑って湯呑みを返す。のっぺりした顔のおせいの頬が、たちまち朱に染まった。

   最後に、髪結いが志鶴を見た。

   「あの方」と志鶴の目が合う。
   切れ長の澄みきった目が、志鶴をまっすぐに射抜いた。

   その刹那、志鶴は悟った。

——わたくしの様子を見に来られた。

   志鶴の口の端が、目に見えるか見えないかのぎりぎりのところで、かすかに上がった。

——なんてことをなさるのか。ここは「南町」の「本丸」なのに。


「……御新造ごしんぞさん、失礼しやす」
   志鶴と目を合わせたまま「あの方」が一礼した。心に染み込むような響きの低い声だった。

「ご苦労さま」
   志鶴は、今度ははっきりとわかる笑顔を見せた。

——あれから、すっかり痩せ細ってしまったわたくしを見て、如何いかに思われたか。

   それよりも……

   丸まげを結い、眉を落としてお歯黒をつけ「人妻」になった姿を見て……

——あの方は、如何に、思われたのであろう。

しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

校長室のソファの染みを知っていますか?

フルーツパフェ
大衆娯楽
校長室ならば必ず置かれている黒いソファ。 しかしそれが何のために置かれているのか、考えたことはあるだろうか。 座面にこびりついた幾つもの染みが、その真実を物語る

夫の色のドレスを着るのをやめた結果、夫が我慢をやめてしまいました

氷雨そら
恋愛
夫の色のドレスは私には似合わない。 ある夜会、夫と一緒にいたのは夫の愛人だという噂が流れている令嬢だった。彼女は夫の瞳の色のドレスを私とは違い完璧に着こなしていた。噂が事実なのだと確信した私は、もう夫の色のドレスは着ないことに決めた。 小説家になろう様にも掲載中です

雪の果て

紫乃森統子
歴史・時代
 月尾藩郡奉行・竹内丈左衛門の娘「りく」は、十八を数えた正月、代官を勤める白井麟十郎との縁談を父から強く勧められていた。  家格の不相応と、その務めのために城下を離れねばならぬこと、麟十郎が武芸を不得手とすることから縁談に難色を示していた。  ある時、りくは父に付き添って郡代・植村主計の邸を訪れ、そこで領内に間引きや姥捨てが横行していることを知るが──

エロ・ファンタジー

フルーツパフェ
大衆娯楽
 物事は上手くいかない。  それは異世界でも同じこと。  夢と好奇心に溢れる異世界の少女達は、恥辱に塗れた現実を味わうことになる。

妻がヌードモデルになる日

矢木羽研
大衆娯楽
男性画家のヌードモデルになりたい。妻にそう切り出された夫の動揺と受容を書いてみました。

和ませ屋仇討ち始末

志波 連
歴史・時代
山名藩家老家次男の三沢新之助が学問所から戻ると、屋敷が異様な雰囲気に包まれていた。 門の近くにいた新之助をいち早く見つけ出した安藤久秀に手を引かれ、納戸の裏を通り台所から屋内へ入っる。 久秀に手を引かれ庭の見える納戸に入った新之助の目に飛び込んだのは、今まさに切腹しようとしている父長政の姿だった。 父が正座している筵の横には変わり果てた長兄の姿がある。 「目に焼き付けてください」 久秀の声に頷いた新之助だったが、介錯の刀が振り下ろされると同時に気を失ってしまった。 新之助が意識を取り戻したのは、城下から二番目の宿場町にある旅籠だった。 「江戸に向かいます」 同行するのは三沢家剣術指南役だった安藤久秀と、新之助付き侍女咲良のみ。 父と兄の死の真相を探り、その無念を晴らす旅が始まった。 他サイトでも掲載しています 表紙は写真ACより引用しています R15は保険です

紀伊国屋文左衛門の白い玉

家紋武範
歴史・時代
 紀州に文吉という少年がいた。彼は拾われっ子で、農家の下男だった。死ぬまで農家のどれいとなる運命の子だ。  そんな文吉は近所にすむ、同じく下女の“みつ”に恋をした。二人は将来を誓い合い、金を得て農地を買って共に暮らすことを約束した。それを糧に生きたのだ。  しかし“みつ”は人買いに買われていった。将来は遊女になるのであろう。文吉はそれを悔しがって見つめることしか出来ない。  金さえあれば──。それが文吉を突き動かす。  下男を辞め、醤油問屋に奉公に出て使いに出される。その帰り、稲荷神社のお社で休憩していると不思議な白い玉に“出会った”。  超貧乏奴隷が日本一の大金持ちになる成り上がりストーリー!!

後宮の胡蝶 ~皇帝陛下の秘密の妃~

菱沼あゆ
キャラ文芸
 突然の譲位により、若き皇帝となった苑楊は封印されているはずの宮殿で女官らしき娘、洋蘭と出会う。  洋蘭はこの宮殿の牢に住む老人の世話をしているのだと言う。  天女のごとき外見と豊富な知識を持つ洋蘭に心惹かれはじめる苑楊だったが。  洋蘭はまったく思い通りにならないうえに、なにかが怪しい女だった――。  中華後宮ラブコメディ。

処理中です...