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六段目
鯔背与力の場〈弐〉
しおりを挟む医師の玄丞とその娘の初音が帰ったあと、多聞は母親の富士に自室での蟄居(謹慎)を云い渡し、志鶴に近づくことを禁じた。
強気だった富士は一転して、
『二度と此度のようなことはせぬから、どうかそなたの父上のお耳には入れてくれるな』
と泣いて頼んだが、多聞はさような言葉こそ耳に入れなかった。
項垂れた富士は、奉公人に支えられながら自室へ去った。人の好い志鶴は、かような富士を心配そうに見送った。
ゆえに、今、この部屋にいるのは志鶴と多聞の二人きりだ。
「……あの夜、できねぇんだったら、なんでちゃんと云わねぇのよ」
多聞が機嫌を損ねた顔でごちた。どうやら、志鶴には町家言葉で接することにしたようだ。
「だからって、突き飛ばすこたぁねぇだろうよ。おかげでおれはおめぇから、すっかり嫌われてるもんだとばっかし思ってたぜ。今日だって、おめぇが倒れたって聞いて、実家に帰ぇしてゆっくり養生さした方がいいかとも思案したしな」
「も…申し訳ありませぬ」
志鶴は消え入るような声で謝った。
「……あの夜、おめぇの口を吸ってるときにゃ、滅法気持ちよさげなおめぇの面を拝んでたってのによ」
多聞がいたずら小僧のごとき目で志鶴を見る。
たちまち頬が朱に染まった志鶴は、恥ずかしさのあまり、夜着を引っ張り上げて顔を隠した。
「……ま、おめぇさんの気質なら云えねぇか」
多聞は口元を緩めて微笑んだ。
その笑顔がどれほど甘くてやさしかったかは、無念なことに夜着で隠れた志鶴の瞳には映らないままであった。
志鶴の枕元にある縫い物を、多聞が手に取った。寸法から見て男物の浴衣だ。
「……志鶴」
多聞が初めて妻の名を呼んだ。
びっくりした志鶴が、思わず夜着から目だけを出す。
「こいつぁ……おれのもんかい」
多聞が縫い物に目を落としたまま訊く。
志鶴はこくり、と肯いた。
「なかなかお目通りが叶いませぬゆえ、せめてもと……あっ、旦那さま、お針にお気をつけくださりませ」
身体の具合がすぐれず捗っておらぬため、木綿の布地にはまだ目印の針がたくさん刺してあった。
「旦那さまは実家の兄より大きゅうござりまするゆえ、兄の寸法より一寸半ほど出しておりまするが、仮縫いを終えたら一度羽織ってもらって確かめ……」
志鶴は夜着から身を起こして、縫い物へ手を伸ばそうとしたその刹那——ぐいっ、と腕を取られて引き寄せられる。
気がつくと布団から出て、多聞の腕の中にすっぽりと包まれていた。
「確かに、おれは餓鬼の頃からおめぇんとこの兄貴よかでけぇし、手足も長げぇわな」
多聞はくくっ、と笑って肩を揺らした。抱かれた志鶴もつられて揺れる。
多聞は昔、剣術道場で佐久間 帯刀と一戦だけ交えたことを思い出した。勝ったのは自分だ。
——そういやぁ、北町の方にえれぇ可愛い子が来てるって騒がれておったな。
兄を応援するために志鶴も見に参っていたのだ。
多聞は、たった今我が身の腕の中に収まっている、成長したその子を見た。
「相分かった。おめぇの頼みなら、いくらでも羽織ってやるさ。けどよ……これ以上、根詰めて無理すんじゃねぇぞ」
腕の中のその子——志鶴を、いたわしげに覗き込む。志鶴を支えるその腕は、まるで壊れ物をそっと抱えるような力具合だった。
——よかった。縫った浴衣は、旦那さまに着てもらえる。
ほっとした志鶴は、多聞を見上げてふっくらと笑った。多聞に見せた、初めての笑顔だった。
その刹那、多聞の整った顔が急に苦しげな顔になる。
志鶴があっと思う間もなく、多聞の顔が近づいてきた。
そして、互いのくちびるが重なった。
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