大江戸ロミオ&ジュリエット

佐倉 蘭

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六段目

剣ヶ峰の場〈弐〉

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   おとないもなしに、いきなり明障子あかりしょうじがぱーんと開いた。

   そこに——多聞がいた。

「んまぁ、いかがなされた、多聞。さような所業、不躾ぶしつけでござりまするぞ」
   富士が気色ばむ。
「しかも、殿方がおなごの部屋に来られるとは、あってはならぬことはなはだしゅうござりまする」

   だが、多聞はさような富士の「お小言」など、一切聞く耳を持たぬさまで、まっすぐ志鶴が横たわる布団のかたわらまでやってきて、腰を下ろす。

「御役目から帰ってきたら、おぬしが倒れたと聞かされて、仰天したぞ。……具合はどうだ」
   多聞の顔は強張こわばっていたが、声はやさしかった。

「旦那さま……申し訳ありませぬ」
   志鶴は布団から起き上がろうとしたが、多聞から「そのままでよい。無理するな」と制される。

   夫に対して、かような失態を繰り返す我が身が情けなくて、俯いた。 

——此度こたびこそ、旦那さまに愛想あいそを尽かされてしもうた。

   とても、多聞の顔を見ることができなかった。

「は…離れよっ、多聞。そのような者と、親しげに話をするものではないっ」
   富士が金切り声で叫んでいるが、多聞には一向に頓着した様はなかった。


「玄丞先生……妻は大事には至らぬでござるか」
   真剣な表情で、多聞は尋ねた。

   夫の口から、初めて我が身のことを「妻」と聞いて、志鶴の頬がぽっと朱に染まった。気づかれては恥ずかしいゆえ、志鶴はさらに俯いた。

「……まったく滋養が足りておらぬのと、月のさわりが終わって血が足りておらぬゆえでござるから、心配するに及ばぬ」
   玄丞はこともなげに答えた。

   志鶴は思わず、がばっ、と顔を上げた。
——つっ、「月の障り」ってっ。だっ、旦那さまの前でっ。

「げっ…玄丞先生っ、とっ…殿方の御前で……つっつっ…月の……」
   富士はおなごの口から、とてもとてもその名をすべて云えなかった。

「なにを云うてござる。女房の月の障りの巡り合わせを、亭主が知らぬはずがなかろうが」
   玄丞は富士を、ぎろり、と睨んだ。

   そのとき、多聞が片側の口の端をちょっと上げて不敵に笑う「浮世絵与力」の顔になった。だが、この上なく真っ赤に染まった顔を見せたくない志鶴はまた俯いてしまっていたゆえ、見ることはできなかった。

   ただ、初音はしかと見ていた。

   ちまたのおなごの心を鷲掴みにしている「浮世絵与力」の笑顔はもちろんのこと、幼き頃よりいつも物静かで、決して心に波風を立たせぬ志鶴の、この上もなく真っ赤っかに火照ほてらせた顔も……

   その顔はまるで——好いたおのこの前にいるかのごとく見えた。


「……松波さま、町家の者たちがこの御家おいえのことをなんて噂しているか、ご存知でござりまするか」
   初音が多聞をまっすぐ見て、口を開いた。

   平生へいぜい、町医のときの父親を手伝う初音には、町家からのさまざまな噂話が耳に入る。

「初音、どなたに向かって申しておる。慎め」 
   父親の玄丞が険しい顔で娘を制する。

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