22 / 81
六段目
剣ヶ峰の場〈弐〉
しおりを挟む訪いもなしに、いきなり明障子がぱーんと開いた。
そこに——多聞がいた。
「んまぁ、いかがなされた、多聞。さような所業、不躾でござりまするぞ」
富士が気色ばむ。
「しかも、殿方がおなごの部屋に来られるとは、あってはならぬこと甚だしゅうござりまする」
だが、多聞はさような富士の「お小言」など、一切聞く耳を持たぬ様で、まっすぐ志鶴が横たわる布団の傍らまでやってきて、腰を下ろす。
「御役目から帰ってきたら、おぬしが倒れたと聞かされて、仰天したぞ。……具合はどうだ」
多聞の顔は強張っていたが、声はやさしかった。
「旦那さま……申し訳ありませぬ」
志鶴は布団から起き上がろうとしたが、多聞から「そのままでよい。無理するな」と制される。
夫に対して、かような失態を繰り返す我が身が情けなくて、俯いた。
——此度こそ、旦那さまに愛想を尽かされてしもうた。
とても、多聞の顔を見ることができなかった。
「は…離れよっ、多聞。そのような者と、親しげに話をするものではないっ」
富士が金切り声で叫んでいるが、多聞には一向に頓着した様はなかった。
「玄丞先生……妻は大事には至らぬでござるか」
真剣な表情で、多聞は尋ねた。
夫の口から、初めて我が身のことを「妻」と聞いて、志鶴の頬がぽっと朱に染まった。気づかれては恥ずかしいゆえ、志鶴はさらに俯いた。
「……まったく滋養が足りておらぬのと、月の障りが終わって血が足りておらぬゆえでござるから、心配するに及ばぬ」
玄丞はこともなげに答えた。
志鶴は思わず、がばっ、と顔を上げた。
——つっ、「月の障り」ってっ。だっ、旦那さまの前でっ。
「げっ…玄丞先生っ、とっ…殿方の御前で……つっつっ…月の……」
富士はおなごの口から、とてもとてもその名をすべて云えなかった。
「なにを云うてござる。女房の月の障りの巡り合わせを、亭主が知らぬはずがなかろうが」
玄丞は富士を、ぎろり、と睨んだ。
そのとき、多聞が片側の口の端をちょっと上げて不敵に笑う「浮世絵与力」の顔になった。だが、この上なく真っ赤に染まった顔を見せたくない志鶴はまた俯いてしまっていたゆえ、見ることはできなかった。
ただ、初音はしかと見ていた。
巷のおなごの心を鷲掴みにしている「浮世絵与力」の笑顔はもちろんのこと、幼き頃よりいつも物静かで、決して心に波風を立たせぬ志鶴の、この上もなく真っ赤っかに火照らせた顔も……
その顔はまるで——好いた男の前にいるかのごとく見えた。
「……松波さま、町家の者たちがこの御家のことをなんて噂しているか、ご存知でござりまするか」
初音が多聞をまっすぐ見て、口を開いた。
平生、町医のときの父親を手伝う初音には、町家からのさまざまな噂話が耳に入る。
「初音、どなたに向かって申しておる。慎め」
父親の玄丞が険しい顔で娘を制する。
0
お気に入りに追加
55
あなたにおすすめの小説
浅葱色の桜
初音
歴史・時代
新選組の局長、近藤勇がその剣術の腕を磨いた道場・試衛館。
近藤勇は、子宝にめぐまれなかった道場主・周助によって養子に迎えられる…というのが史実ですが、もしその周助に娘がいたら?というIfから始まる物語。
「女のくせに」そんな呪いのような言葉と向き合いながら、剣術の鍛錬に励む主人公・さくらの成長記です。
時代小説の雰囲気を味わっていただくため、縦書読みを推奨しています。縦書きで読みやすいよう、行間を詰めています。
小説家になろう、カクヨム、エブリスタでも載せてます。
徳川家基、不本意!
克全
歴史・時代
幻の11代将軍、徳川家基が生き残っていたらどのような世の中になっていたのか?田沼意次に取立てられて、徳川家基の住む西之丸御納戸役となっていた長谷川平蔵が、田沼意次ではなく徳川家基に取り入って出世しようとしていたらどうなっていたのか?徳川家治が、次々と死んでいく自分の子供の死因に疑念を持っていたらどうなっていたのか、そのような事を考えて創作してみました。

土方歳三ら、西南戦争に参戦す
山家
歴史・時代
榎本艦隊北上せず。
それによって、戊辰戦争の流れが変わり、五稜郭の戦いは起こらず、土方歳三は戊辰戦争の戦野を生き延びることになった。
生き延びた土方歳三は、北の大地に屯田兵として赴き、明治初期を生き抜く。
また、五稜郭の戦い等で散った他の多くの男達も、史実と違えた人生を送ることになった。
そして、台湾出兵に土方歳三は赴いた後、西南戦争が勃発する。
土方歳三は屯田兵として、そして幕府歩兵隊の末裔といえる海兵隊の一員として、西南戦争に赴く。
そして、北の大地で再生された誠の旗を掲げる土方歳三の周囲には、かつての新選組の仲間、永倉新八、斎藤一、島田魁らが集い、共に戦おうとしており、他にも男達が集っていた。
(「小説家になろう」に投稿している「新選組、西南戦争へ」の加筆修正版です)

日本が危機に?第二次日露戦争
杏
歴史・時代
2023年2月24日ロシアのウクライナ侵攻の開始から一年たった。その日ロシアの極東地域で大きな動きがあった。それはロシア海軍太平洋艦隊が黒海艦隊の援助のために主力を引き連れてウラジオストクを離れた。それと同時に日本とアメリカを牽制する為にロシアは3つの種類の新しい極超音速ミサイルの発射実験を行った。そこで事故が起きた。それはこの事故によって発生した戦争の物語である。ただし3発も間違えた方向に飛ぶのは故意だと思われた。実際には事故だったがそもそも飛ばす場所をセッティングした将校は日本に向けて飛ばすようにセッティングをわざとしていた。これは太平洋艦隊の司令官の命令だ。司令官は黒海艦隊を支援するのが不服でこれを企んだのだ。ただ実際に戦争をするとは考えていなかったし過激な思想を持っていた為普通に海の上を進んでいた。
なろう、カクヨムでも連載しています。

【完結】お飾りの妻からの挑戦状
おのまとぺ
恋愛
公爵家から王家へと嫁いできたデイジー・シャトワーズ。待ちに待った旦那様との顔合わせ、王太子セオドア・ハミルトンが放った言葉に立ち会った使用人たちの顔は強張った。
「君はお飾りの妻だ。装飾品として慎ましく生きろ」
しかし、当のデイジーは不躾な挨拶を笑顔で受け止める。二人のドタバタ生活は心配する周囲を巻き込んで、やがて誰も予想しなかった展開へ……
◇表紙はノーコピーライトガール様より拝借しています
◇全18話で完結予定
後宮の棘
香月みまり
キャラ文芸
蔑ろにされ婚期をのがした25歳皇女がついに輿入り!相手は敵国の禁軍将軍。冷めた姫vs堅物男のチグハグな夫婦は帝国内の騒乱に巻き込まれていく。
☆完結しました☆
スピンオフ「孤児が皇后陛下と呼ばれるまで」の進捗と合わせて番外編を不定期に公開していきます。
第13回ファンタジー大賞特別賞受賞!
ありがとうございました!!
三国志 群像譚 ~瞳の奥の天地~ 家族愛の三国志大河
墨笑
歴史・時代
『家族愛と人の心』『個性と社会性』をテーマにした三国志の大河小説です。
三国志を知らない方も楽しんでいただけるよう意識して書きました。
全体の文量はかなり多いのですが、半分以上は様々な人物を中心にした短編・中編の集まりです。
本編がちょっと長いので、お試しで読まれる方は後ろの方の短編・中編から読んでいただいても良いと思います。
おすすめは『小覇王の暗殺者(ep.216)』『呂布の娘の嫁入り噺(ep.239)』『段煨(ep.285)』あたりです。
本編では蜀において諸葛亮孔明に次ぐ官職を務めた許靖という人物を取り上げています。
戦乱に翻弄され、中国各地を放浪する波乱万丈の人生を送りました。
歴史ものとはいえ軽めに書いていますので、歴史が苦手、三国志を知らないという方でもぜひお気軽にお読みください。
※人名が分かりづらくなるのを避けるため、アザナは一切使わないことにしました。ご了承ください。
※切りのいい時には完結設定になっていますが、三国志小説の執筆は私のライフワークです。生きている限り話を追加し続けていくつもりですので、ブックマークしておいていただけると幸いです。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる