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六段目
剣ヶ峰の場〈壱〉
しおりを挟む志鶴は目を開けた。
「……あっ、しぃちゃん……目をお覚ましになったっ」
初音がほっとしたように、志鶴の顔を覗き込む。
幼き頃より見知った顔が、目の前にある。なんだか、長い夢を見ていたみたいだ。
——きっと、そうであろう。夢、だったのだ。「南町」に嫁ぐなんて。
竹内 玄丞が手早く志鶴の手首をとって脈を診て、それから目や口の中を確かめる。
「……滋養がまったく足りておらぬな」
眉根を寄せて、唸った。
玄丞は、安芸広島新田藩の御殿医だ。併せて、居を構える青山緑町で町医として、武家だけでなく町家の者も分け隔てなく診ていた。
初音はその娘である。志鶴より四つ下のまだ十四になったばかりではあるが、玄丞の妻であり我が母である千都世が病弱で伏せがちであるゆえ、すでに父の手伝いをしていた。
志鶴とは、先代の安芸広島新田藩主の奥方様が、表向き「御行儀見習」と称して武家のおなごを招き開いていた「手習所」で机を並べた仲だった。
先代の奥方様は、御前様(藩主)に輿入れなされる前は国許で手習所をお開きになっておられたそうだ。
「……しぃちゃん……かように痩せてしもうて」
初音のぱっちりした大きな瞳が、みるみるうちに涙であふれてきた。
「はっちゃん……どうなされた。……泣かないでちょうだいな」
志鶴は初音を安心させるために、にっこり笑おうとした。だが、それは弱々しいものとなり、余計に初音の涙を誘うこととなった。
「……嫁いで早々に倒れるとは。まさに、『嫁失格』にてござりまするな」
冷え冷えとした尖った声が飛んできた。
——富士の声であった。
その声で、志鶴は「南町」に嫁いだことが、夢ではなかったと思い知らされる。
どうやら、この御家も実家と同じく、なにかあったときに頼る医師が玄丞であったのだ。
志鶴は悟られぬように、落胆の息を吐いた。
「奥様……さような物云い、あんまりではござりませぬかっ」
初音が叫んだ。平生はよく笑う愛らしいくちびるが、今はぷるぷる震えている。
「んまぁっ、わたくしのような年嵩の者に対して、なんたる振る舞い……許しませぬぞ」
富士が鋭い目で、ぴしゃり、と窘める。
「初音、過ぎるぞ」
父親の玄丞も娘を制す。
「されども……父上、このままではしぃちゃんが、あまりにも……」
「いいのよ、はっちゃん」
志鶴は初音を宥めた。
この御家で、さように我が身を庇ってくれただけで、うれしかった。
そのとき——
部屋の外が、がやがやと騒がしくなった。回廊を歩く、大きな足音も聞こえてくる。
しかも、次第に近づいてくる。
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