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五段目
許嫁の場〈弐〉
しおりを挟む「ひっ……」
志鶴の口から思わず漏れる。
背がぞぞっとし、冷んやりとした汗がつつーっと流れていく気配がした。
「お千賀ちゃんも、そなたと同じ十八じゃ。これ以上どこへも嫁せずに多聞を待たれよ、と申すのは酷い話じゃと、そなたも思われるでござりましょうや」
決して声を荒げることはないというのに、あることを望むその響きには、有無を云わさぬものがあった。
千賀は、富士の弟である南町奉行所 例繰方与力の進藤 又十蔵の娘であった。
ゆえに、富士とは伯母と姪、多聞とは従兄妹同士の間柄だ。
「例繰方」とは、御奉行の御白州での御裁きを書き留め、それに基づいて「御仕置裁許帳」という判例集を作るという御役目である。
机上の御役目であるがゆえ、巷で何事が起こっても押っ取り刀で駆けつけることはない。
代々かような御役目の御家の富士であったため、町家での生き死に関わって泥臭く駆けずり回る町方役人を「不浄役人」と陰で呼んで蔑んでいた。
まさか……我が身がさような家に嫁ぐことになろうとは、つゆほども思うてみなかった。
嫡男の多聞は今は「当番方」だが、そのうち御用で捕縛された者たちを取り調べる「吟味方」になり、それから同心を束ねる「同心支配役」と呼ばれる「筆頭与力」に任ぜられ、やがては父親と同じ御役目の「年番方」に就くに相違ない。
町奉行所では出世街道まっしぐらだと、だれもが思うところなのだが、富士にとっては我が腹を痛めて産んだ子がよりにもよって「不浄役人」まっしぐらである。
ゆえに、多聞の姉の寿々乃が、御奉行の側用人である「内与力」の水島 織部の御家に嫁いだことが、なによりの自慢であり心の拠り処でもあった。
——せめて、多聞に嫁いで参る者が「不浄役人」の御家柄でないおなごでないと……
富士はさように想い続けていたがために、ずっと千賀に目をかけてきたのだ。
なのに、嫁いで参ったのは同じ年番方の「不浄役人」である御家の者であった。
しかも……
——「北町」のおなごとは。
「……お千賀ちゃんにそなたの顔でも、と思うて呼んではみたが、やはりわたくしはそなたの顔など見とうないわ」
やはり、穢れたものでも見るかのように、富士は志鶴をじろりと見た。
「早う、下がれ」
富士は犬の仔でも追い払うかのごとく、袂を揺らした。
千賀が袖先を口にあて、くすりと笑ったように見えた。
志鶴は御役御免の形ばかりの一礼をして、立ち上がろうとした。
とたんに、部屋の景色がくるりと一回りする。
——あれっ、目が定まらぬ……
さように思うたのもつかの間——志鶴は畳に崩れ落ちていた。
——旦那さまには、取り返しのつかぬことを仕出かしてしもうたし……
次第に薄れゆく意識の中で、
——これで「北町」に戻れるかもしれぬ……
志鶴はぼんやりと思った。
——今なら、まだ生娘のままで……
あの方のところへ——
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