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五段目

許嫁の場〈壱〉

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   あたりまえのことではあるが……あの夜以来、志鶴はさっぱり多聞から呼ばれなくなった。
   その代わり、思いがけないお方から部屋に呼ばれた。

——姑の富士である。


   おせいの案内で、初めて姑の部屋に向かう。
「志鶴にてござりまする」
   座敷の中へ膝を進めると、富士とその正面に座した年若いおなごが楽しげに語らっていた。

   年若いおなごが志鶴を見た。
「……そなたが多聞さまの」

   一重のすっとした切れ長の目で、じっと見つめられる。
   瓜実顔のたいそうな美人である。まるで、鳥居清長が描いた美人図から、抜け出てきたかのようだ。

「妻の志鶴にてござりまする」
   一礼して挨拶した。

「……はっ、妻らしいことなぞ、なに一つしてはおらぬのに、口上こうじょうだけはご立派にてござりまするなぁ」
   富士が呆れ果てたという声音で、鋭く告げる。「妻らしいこと」を一切させぬのは、その姑であるのだが……

「お千賀ちかちゃんが多聞の嫁ならば、わたくしもかように心を痛めることなく済んだものを……」
   富士が打って変わって、口元に袖を寄せ、よよっ、としおらしく嘆く。

伯母おば上、御奉行様の御取り計らいでござりまするゆえ。れらにはどうすることもできませぬ」
   千賀が富士の肩に手を乗せてなだめる。

「……多聞もかわいそうに。幼き頃より許嫁いいなずけであったお千賀ちゃんと夫婦めおとにもなれず……まるで『野崎村』ではあるまいか」
   さらに、富士は畳に突っ伏すかのごとく腰を折る。

「伯母上……せんなきことを云うてくれまするな」
   千賀が富士のせなさする。


   ちなみに「野崎村」とは、歌舞伎の演目の一場面である。

   おみつが幼なじみの許婚いいなずけである久松ひさまつとの待ちに待った祝言の日に、久松がかつて奉公していた油屋の娘のおそめが、突如訪ねてくる。
   そして、夫婦めおとになれぬ久松に心中を持ちかける。実は、お染は久松の子を身籠っていたのだ。
   それを知ったお光は急遽、尼さんになる出家することで、泣く泣く我が身を引いたのであった……という筋立てである。

   無論、志鶴の役回りは「お染」だ。

   しかし、そもそも久松とお染は子を生すほど相惚れしていたのだが、久松が無実の罪を着せられておたなから放免されたために、泣く泣く国許くにもとに帰っていたのであって、本当に「お邪魔虫」なのはむしろ、お光の方なのだが……

   ゆえに、人形浄瑠璃では「染模様妹背門松そめもよういもせのかどまつ」、歌舞伎では「新版歌祭文しんぱんうたざいもん」という立派な外題げだいがあるにもかかわらず、ちまたでは「お染久松」という通り名で呼ばれている。


「そなた……お理解わかりでござりまするな」

   突っ伏すかのごとく腰を折っていた富士の顔が、浄瑠璃の人形のようにくるりと、志鶴の方に向けられた。

   しかも、お能の「増女」の面にそっくりの顔立ちで……

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