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四段目
南町組屋敷の場〈弍〉
しおりを挟む与力は、毎朝起床してすぐに、出入りの髪結い屋に髪をきちっと結ってもらう。
昨日見た多聞は、巷で評判の「本多髷」という、すっきりと高く結い上げた細い髷を前に垂らした髪型をしていた。
髪を整え朝餉をとった与力は、湯屋へ行ってひとっ風呂浴びてから町奉行所へ御役目に出る、という手はずである。
ちなみに、与力は朝の湯屋では「女湯」に入る。朝の忙しない時分に湯屋などに通える町家の女房連中はいないから、朝の女湯は与力の「貸切」になっており、そのため専用の刀置き場まであるくらいだ。
実は、男湯から聞こえてくる巷の噂話をこっそり仕入れて御用に活かす、という「御役目」も兼ねているのだが。
それは「北町」も「南町」も変わらないはずだ。
「……それから、わたくしはそなたとは口もききとうないし、顔も見とうもない。そなたのことは、この……おせいに任せたゆえ」
富士の斜め後ろにいたおなごが、ぺこりと頭を下げた。昨夜、多聞の寝間まで案内してくれた奉公人だった。志鶴よりいくつか歳下のように見える。
——姑上様とはなかなか難儀なようだが、とりあえず歳の近い「話し相手」ができてよかった。
もともと、武家や商家や農家でも庄屋などは、家族であっても男とおなごとは同じ部屋では食さない。男はみんなで座敷で取るが、おなごはみんなで竈のある土間から一番近い部屋で取ることが多い。
だが、富士は毎食、寝間にしている自室で一人きりで取っているらしく、なにも云わずに去って行った。
おせいが膳を運んできた。竈のある土間にある小上がりの、六帖ほどの板間にそれを置く。
志鶴の実家では、ここで食するのは奉公人たちだ。奉公人たちは男女問わずみんなで食す。流石に志鶴は奉公人たちと膳を並べて、というわけではないが。
膳の上には、一膳の飯とおみおつけ、そして沢庵が三切れだけあった。朝餉だから、であろう。
「……御新造さんには早う食べてもらわんと、あたしらが食べられんから」
一重の細い目の、のっぺりとした目鼻立ちのおせいは、ただそれだけを早口で云った。「御新造」とは武家でも御家人の妻に対する呼び名である。
ほかの者たちは、朝の挨拶すらなかった。
゜゚・*:.。. .。.:*・゜゚・*:.。. .。.:*・゜
朝餉を終えた志鶴は、なにもすることがなかった。
おせいは志鶴のことを任されたといっても「御付きの者」というわけではなく、ほかにも細々とした仕事があるようだった。
ゆえに、「話し相手」になるような気配は一切なかった。
『顔も見とうない』『声も聞きとうない』と云われた姑の富士は、自室に籠っているようだ。
仕方なく、志鶴も自室に戻った。
実家と同じく三百坪はあるであろう松波の御屋敷であったが、志鶴にあてがわれた部屋は、乾の一番端の、朝はさっぱり陽が差さず、夕刻近くになってようやく西陽が届く、じめじめした場所にあった。
腕利きの職人の手が入った立派な中庭があったが、志鶴の部屋からはその端しか見えなかった。かろうじて見えるその端を眺め、志鶴はほうっと深いため息をついた。
実家では母親が出かけて留守であっても、奉公人たちとなにやかやと話していた。
だれとも話さずに日がな一日を過ごすことが、こんなにも寂しくて侘しいことだなんて、知らなかった。
——かようなことが、これから三年も、続くのであろうか。
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