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三段目
初夜の場
しおりを挟む祝言を終えた志鶴はとうとう、生まれ育った「北町」の組屋敷から、婚家の「南町」の組屋敷へ移ることとなった。
同じ八丁堀にある目と鼻の先なのに、ずいぶん遠いところまで来てしまったと思った。
それほど、互いに行き来はなかったのだ。
夜も更け、志鶴は婚家の松波の屋敷であてがわれた寝間で、実家で支度した真っ白な寝間着に着替えた。
寝間着、といっても、もう一つの「花嫁衣装」である。滑らかな肌触りの羽二重の上物だ。かようなところにも支度した母親の「北町の矜持」が感じられる。
武家の妻は、夫とは寝間が別である。
夫から同衾するよう申しつけられたときに、妻が夫の寝間へ通う。
奉公人が志鶴を呼びに来た。
今宵は「初夜」である。
志鶴は覚悟を決めて、立ち上がった。
本日、正式に夫となった松波 多聞とは、一言も話すことなく、しかも顔さえもちゃんと見ていなかった。
奉公人の案内で多聞の部屋の前まで来た。
実家と同じく三百坪はある御屋敷だ。初めての本日は、案内人がいなくてはたどり着けぬであろう。
奉公人がすっ、と下がる。
志鶴は明障子の前で正座した。
「……志鶴にてござりまする」
声が震えぬよう、腹に力を入れて申す。
「入れ」
凛とした声が返ってきた。
志鶴は一度息を吸って、背筋を伸ばしてから、明障子をすーっと開けた。
「旦那さま……お初に御目にかかりまする。志鶴にてござりまする」
夫となった多聞に平伏する。
本日、晴れて夫婦になった二人であるが、初めて顔を合わして口をきいたのだから、志鶴はかような口上になる。
「面を上げよ」
多聞から云われ、志鶴はすっと顔を上げた。
初めて、目と目が合う。
多聞にぐっ、と見つめられる。ぎらり、とその眼が鋭い光を放った。
ものすごい目力であった。
流石に巷で「浮世絵与力」ともてはやされているだけあって、夜目にもすこぶる「いい男」である。
志鶴の兄の佐久間 帯刀も、北町のおなごたちから騒がれて、却って嫁取りを難しくしているくらいの器量だが、多聞には敵わないと云わざるを得なかった。
寝間の隅に置かれた行燈の仄暗い明かりが、余計にぞくっ、とした妖しい色気を感じさせる。
思わず、志鶴は俯いた。頬がじわっと赤くなるのを隠したかった。
俯いた目の端に、夜着が入ってきた。志鶴が実家から嫁入り道具の一つとして持ってきた、色鮮やかな錦地の綿入れの打掛で、夫婦の掛け布団として支度されたものだ。
一気に、今夜、目の前のこのお方と同衾するのだ、という実感が押し寄せてきた。
知らず識らずのうちに、志鶴は膝の上に乗せた手を、ぎゅっ、と握りしめていた。
「……下がってよい」
その声に、志鶴は顔を上げた。呆けた顔をしているに違いない。
「本日は祝言で疲れておるでござろう。……今夜は早う休め」
そう云って、多聞は顔を背けた。
志鶴はもう一度、平伏した。
「それでは、失礼いたしまする。旦那さま……御寝みなされませ」
志鶴は——助かったと、心の中で息をついた。
゜゚・*:.。. .。.:*・゜゚・*:.。. .。.:*・゜
我が寝間に戻った志鶴は、夜着に潜り込みながら、長かった今日一日を思い起こした。
我が身のためだけの夜着は、夫婦で使うのとは大きく異なり、あっさりした文様の綿入れ打掛であった。
武家に生まれたからには、幼き頃より御家のための縁組になるのは覚悟していた。
確かに、客も多く膳も華やかで、南北の町奉行所の年番方与力の御家の祝言として、盛大なものであった。
だが……
——あまりにも「情」からかけ離れたそらぞらしい祝言であった。
志鶴は一人になったこのとき、ようやく堪えていたやり切れなさがこみ上げてきた。
「……御奉行様たち以外だれ一人、この縁組を目出度いとは思うておらなんだなぁ」
志鶴は暗闇の中で、ぽつり、と呟いた。
そのとき、ふと「あの方」の顔が浮かんだ。
——これがもし「あの方」との祝言であったならば。
この縁談が決まってからは……そして今日一日は特に、絶対に考えないようにしていたことだ。
だが……
その刹那、日本橋で見知らぬ年増の女と口を合わせていた姿も心によぎる。
思わず鼻の奥がつん、とした。
志鶴は「せんなきことを」と声なき声で呟き、無理矢理その目を閉じた。
——「三年」が始まった。
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