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二段目
北町組屋敷の場
しおりを挟む「……それで旦那さま、無論、即座に御奉行様にはお断りになられたのでござりまするな」
彦左衛門の妻である志代が、金切り声で迫った。
北町奉行所は千代田のお城(江戸城)の卯の方角(現在の丸の内付近)にあるのだが、そこに勤める与力や同心たちが居を構えているのは少し離れた八丁堀(現在の兜町・茅場町付近)の一角にある北町組屋敷で、そこに彦左衛門の家もあった。
与力に与えられている三百坪はゆうにある広い家にいるにもかかわらず、今は一つの座敷に家族四人が顔を突き合わせていた。
そして、だれもが明日をも知れぬ不安な心地を、惜しげもなくその面持ちに顕していた。
「……もしや、父上……その場でお引き受けになったのではあるまいな」
この家の跡取りの嫡男で、奉行所では若手の与力の登竜門である「当番方」を務める、佐久間 帯刀が青い顔で問うた。今年二十四で、まだ妻は娶っていない。
「御奉行からの『下知』であるぞ。……だれが断れようか」
彦左衛門は苦渋の面持ちで唸った。
その刹那、志代が鶏を殺めたときのような、えも云われぬ声を上げて、畳に突っ伏した。
「……志鶴、このとおりだ。『南町』へ……嫁入ってくれぬか」
娘の志鶴に、彦左衛門は頭を下げた。
一家の惣領である父親が、わが娘なぞに頭を下げるなどとは、武家ではあってはならぬことだ。
だが、それはまた、武家である父にとって、御公儀(江戸幕府)の沙汰によって御仕えする御奉行の下知がそれほど絶対だ、ということにもなる。
志鶴はことの重大さに、身震いしそうだった。
「ち…父上、お顔をお上げくださりませ」
事実、志鶴の声は震えていた。
突っ伏したままの志代からは、恨み節が聞こえる。
「あんまりでございまする。……さっさと同じ『北町』の組の中から婿を選んでおけばよかったものを。旦那さまが志鶴を嫁に出しとうないあまり、いつまでも決めぬゆえ、かようなことに……」
志鶴は今年十八で、まさにいつ嫁入りしてもおかしくない歳だった。むしろ、来年になれば「嫁き遅れ」にならねばよいが、という気配になってくるくらいだ。
「……志鶴、三年、辛抱してくれぬか」
彦左衛門は意外なことを告げた。
「ろくに行き来のない家に嫁に出したとて、おまえが馴染むはずがないことは百も承知だ」
即座に、帯刀が気色ばんだ声を発した。
「ち…父上、初めから離縁を承知で、志鶴を南町へ嫁に出すおつもりか」
がばっ、と身を起こした志代も、信じられない顔をして叫んだ。
「だ…旦那さま、志鶴を出戻りにさせるおつもりかっ。出戻りではもう同じ『与力』の御家へは嫁げませぬっ。嫁げたとしても後妻になりまするっ」
本来ならば「与力」の御役目は一代限りで、実力でもって任じられねばならぬものであったが、いつしか親から引き継ぐ「世襲」になっていた。
今まで俯きがちだった志鶴が、いきなり面をすっ、と上げた。棗の形のくっきりした双眸の瞳に光が宿る。
「……父上、三年経ってこの家に戻った暁には、志鶴の思うままにしても、よろしゅうござりまするか」
小さな声ではあったが、しっかりと聞き取れた。
——もしや。
志鶴の心に、一条の光が差し込む。
——「あの方」と夫婦になれるやもしれぬ。
三年は、それなりの年月だ。その間に「あの方」が妻を娶られるかもしれぬ。
——でも、今のままでは、わたくしは一生「あの方」の妻にはなれぬ。
これは賭けだ。それも、一世一代の。
「……三年経ったら……おまえの好きにするがよい」
しばらくの沈黙のあと、彦左衛門は深いため息と共に告げた。この縁談が来て以来、少し老けたような気がする。
「……志鶴は『南町』へ参りまする」
志鶴は家族のみなに対して、平伏した。
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