4 / 81
二段目
北町組屋敷の場
しおりを挟む「……それで旦那さま、無論、即座に御奉行様にはお断りになられたのでござりまするな」
彦左衛門の妻である志代が、金切り声で迫った。
北町奉行所は千代田のお城(江戸城)の卯の方角(現在の丸の内付近)にあるのだが、そこに勤める与力や同心たちが居を構えているのは少し離れた八丁堀(現在の兜町・茅場町付近)の一角にある北町組屋敷で、そこに彦左衛門の家もあった。
与力に与えられている三百坪はゆうにある広い家にいるにもかかわらず、今は一つの座敷に家族四人が顔を突き合わせていた。
そして、だれもが明日をも知れぬ不安な心地を、惜しげもなくその面持ちに顕していた。
「……もしや、父上……その場でお引き受けになったのではあるまいな」
この家の跡取りの嫡男で、奉行所では若手の与力の登竜門である「当番方」を務める、佐久間 帯刀が青い顔で問うた。今年二十四で、まだ妻は娶っていない。
「御奉行からの『下知』であるぞ。……だれが断れようか」
彦左衛門は苦渋の面持ちで唸った。
その刹那、志代が鶏を殺めたときのような、えも云われぬ声を上げて、畳に突っ伏した。
「……志鶴、このとおりだ。『南町』へ……嫁入ってくれぬか」
娘の志鶴に、彦左衛門は頭を下げた。
一家の惣領である父親が、わが娘なぞに頭を下げるなどとは、武家ではあってはならぬことだ。
だが、それはまた、武家である父にとって、御公儀(江戸幕府)の沙汰によって御仕えする御奉行の下知がそれほど絶対だ、ということにもなる。
志鶴はことの重大さに、身震いしそうだった。
「ち…父上、お顔をお上げくださりませ」
事実、志鶴の声は震えていた。
突っ伏したままの志代からは、恨み節が聞こえる。
「あんまりでございまする。……さっさと同じ『北町』の組の中から婿を選んでおけばよかったものを。旦那さまが志鶴を嫁に出しとうないあまり、いつまでも決めぬゆえ、かようなことに……」
志鶴は今年十八で、まさにいつ嫁入りしてもおかしくない歳だった。むしろ、来年になれば「嫁き遅れ」にならねばよいが、という気配になってくるくらいだ。
「……志鶴、三年、辛抱してくれぬか」
彦左衛門は意外なことを告げた。
「ろくに行き来のない家に嫁に出したとて、おまえが馴染むはずがないことは百も承知だ」
即座に、帯刀が気色ばんだ声を発した。
「ち…父上、初めから離縁を承知で、志鶴を南町へ嫁に出すおつもりか」
がばっ、と身を起こした志代も、信じられない顔をして叫んだ。
「だ…旦那さま、志鶴を出戻りにさせるおつもりかっ。出戻りではもう同じ『与力』の御家へは嫁げませぬっ。嫁げたとしても後妻になりまするっ」
本来ならば「与力」の御役目は一代限りで、実力でもって任じられねばならぬものであったが、いつしか親から引き継ぐ「世襲」になっていた。
今まで俯きがちだった志鶴が、いきなり面をすっ、と上げた。棗の形のくっきりした双眸の瞳に光が宿る。
「……父上、三年経ってこの家に戻った暁には、志鶴の思うままにしても、よろしゅうござりまするか」
小さな声ではあったが、しっかりと聞き取れた。
——もしや。
志鶴の心に、一条の光が差し込む。
——「あの方」と夫婦になれるやもしれぬ。
三年は、それなりの年月だ。その間に「あの方」が妻を娶られるかもしれぬ。
——でも、今のままでは、わたくしは一生「あの方」の妻にはなれぬ。
これは賭けだ。それも、一世一代の。
「……三年経ったら……おまえの好きにするがよい」
しばらくの沈黙のあと、彦左衛門は深いため息と共に告げた。この縁談が来て以来、少し老けたような気がする。
「……志鶴は『南町』へ参りまする」
志鶴は家族のみなに対して、平伏した。
0
お気に入りに追加
55
あなたにおすすめの小説
東洲斎写楽の懊悩
橋本洋一
歴史・時代
時は寛政五年。長崎奉行に呼ばれ出島までやってきた江戸の版元、蔦屋重三郎は囚われの身の異国人、シャーロック・カーライルと出会う。奉行からシャーロックを江戸で世話をするように脅されて、渋々従う重三郎。その道中、シャーロックは非凡な絵の才能を明らかにしていく。そして江戸の手前、箱根の関所で詮議を受けることになった彼ら。シャーロックの名を訊ねられ、咄嗟に出たのは『写楽』という名だった――江戸を熱狂した写楽の絵。描かれた理由とは? そして金髪碧眼の写楽が江戸にやってきた目的とは?
色は変わらず花は咲きけり〜平城太上天皇の変
Tempp
歴史・時代
奈良の都には梅が咲き誇っていた。
藤原薬子は小さい頃、兄に会いに遊びに来る安殿親王のことが好きだった。当時の安殿親王は皇族と言えども身分は低く、薬子にとっても兄の友人という身近な存在で。けれども安殿親王が太子となり、薬子の父が暗殺されてその後ろ盾を失った時、2人の間には身分の差が大きく隔たっていた。
血筋こそが物を言う貴族の世、権謀術数と怨念が渦巻き血で血を洗う都の内で薬子と安殿親王(後の平城天皇)が再び出会い、乱を起こすまでの話。
注:権謀術数と祟りと政治とちょっと禁断の恋的配分で、壬申の乱から平安京遷都が落ち着くまでの歴史群像劇です。
//
故里となりにし奈良の都にも色はかはらず花は咲きけり
(小さな頃、故郷の平城の都で見た花は今も変わらず美しく咲いているのですね)
『古今和歌集』奈良のみかど
父(とと)さん 母(かか)さん 求めたし
佐倉 蘭
歴史・時代
★第10回歴史・時代小説大賞 奨励賞受賞★
ある日、丑丸(うしまる)の父親が流行病でこの世を去った。
貧乏裏店(長屋)暮らしゆえ、家守(大家)のツケでなんとか弔いを終えたと思いきや……
脱藩浪人だった父親が江戸に出てきてから知り合い夫婦(めおと)となった母親が、裏店の連中がなけなしの金を叩いて出し合った線香代(香典)をすべて持って夜逃げした。
齢八つにして丑丸はたった一人、無一文で残された——
※「今宵は遣らずの雨」 「大江戸ロミオ&ジュリエット」「大江戸シンデレラ」にうっすらと関連したお話ですが単独でお読みいただけます。
西涼女侠伝
水城洋臣
歴史・時代
無敵の剣術を会得した男装の女剣士。立ち塞がるは三国志に名を刻む猛将馬超
舞台は三國志のハイライトとも言える時代、建安年間。曹操に敗れ関中を追われた馬超率いる反乱軍が涼州を襲う。正史に残る涼州動乱を、官位無き在野の侠客たちの視点で描く武侠譚。
役人の娘でありながら剣の道を選んだ男装の麗人・趙英。
家族の仇を追っている騎馬民族の少年・呼狐澹。
ふらりと現れた目的の分からぬ胡散臭い道士・緑風子。
荒野で出会った在野の流れ者たちの視点から描く、錦馬超の実態とは……。
主に正史を参考としていますが、随所で意図的に演義要素も残しており、また武侠小説としてのテイストも強く、一見重そうに見えて雰囲気は割とライトです。
三國志好きな人ならニヤニヤ出来る要素は散らしてますが、世界観説明のノリで注釈も多めなので、知らなくても楽しめるかと思います(多分)
涼州動乱と言えば馬超と王異ですが、ゲームやサブカル系でこの2人が好きな人はご注意。何せ基本正史ベースだもんで、2人とも現代人の感覚としちゃアレでして……。
永き夜の遠の睡りの皆目醒め
七瀬京
歴史・時代
近藤勇の『首』が消えた……。
新撰組の局長として名を馳せた近藤勇は板橋で罪人として処刑されてから、その首を晒された。
しかし、その首が、ある日忽然と消えたのだった……。
近藤の『首』を巡り、過去と栄光と男たちの愛憎が交錯する。
首はどこにあるのか。
そして激動の時代、男たちはどこへ向かうのか……。
※男性同士の恋愛表現がありますので苦手な方はご注意下さい
吉宗のさくら ~八代将軍へと至る道~
裏耕記
歴史・時代
破天荒な将軍 吉宗。民を導く将軍となれるのか
―――
将軍?捨て子?
貴公子として生まれ、捨て子として道に捨てられた。
その暮らしは長く続かない。兄の不審死。
呼び戻された吉宗は陰謀に巻き込まれ将軍位争いの旗頭に担ぎ上げられていく。
次第に明らかになる不審死の謎。
運命に導かれるようになりあがる吉宗。
将軍となった吉宗が隅田川にさくらを植えたのはなぜだろうか。
※※
暴れん坊将軍として有名な徳川吉宗。
低迷していた徳川幕府に再び力を持たせた。
民の味方とも呼ばれ人気を博した将軍でもある。
徳川家の序列でいくと、徳川宗家、尾張家、紀州家と三番目の家柄で四男坊。
本来ならば将軍どころか実家の家督も継げないはずの人生。
数奇な運命に付きまとわれ将軍になってしまった吉宗は何を思う。
本人の意思とはかけ離れた人生、権力の頂点に立つのは幸運か不運なのか……
突拍子もない政策や独創的な人事制度。かの有名なお庭番衆も彼が作った役職だ。
そして御三家を模倣した御三卿を作る。
決して旧来の物を破壊するだけではなかった。その効用を充分理解して変化させるのだ。
彼は前例主義に凝り固まった重臣や役人たちを相手取り、旧来の慣習を打ち破った。
そして独自の政策や改革を断行した。
いきなり有能な人間にはなれない。彼は失敗も多く完全無欠ではなかったのは歴史が証明している。
破天荒でありながら有能な将軍である徳川吉宗が、どうしてそのような将軍になったのか。
おそらく将軍に至るまでの若き日々の経験が彼を育てたのだろう。
その辺りを深堀して、将軍になる前の半生にスポットを当てたのがこの作品です。
本作品は、第9回歴史・時代小説大賞の参加作です。
投票やお気に入り追加をして頂けますと幸いです。
やり直し王女テューラ・ア・ダンマークの生存戦略
シャチ
歴史・時代
ダンマーク王国の王女テューラ・ア・ダンマークは3歳の時に前世を思いだす。
王族だったために平民出身の最愛の人と結婚もできす、2回の世界大戦では大国の都合によって悲惨な運命をたどった。
せっかく人生をやり直せるなら最愛の人と結婚もしたいし、王族として国民を不幸にしないために活動したい。
小国ダンマークの独立を保つために何をし何ができるのか?
前世の未来知識を駆使した王女テューラのやり直しの人生が始まる。
※デンマークとしていないのはわざとです。
誤字ではありません。
王族の方のカタカナ表記は現在でも「ダンマーク」となっておりますのでそちらにあえて合わせてあります
いせものがたり~桜隠し朝の永久~
狭山ひびき@バカふり160万部突破
歴史・時代
あの人が来る――。恬子(やすこ)は小野の雪深い地で、中将が来るのを待っていた。中将と恬子が出会ったのは、彼女が伊勢の斎宮だったとき。そのときから、彼の存在はかわらず恬子の心にある。しかし、この恋はかなえてはいけないもの――。互いに好き合いながら、恬子は彼の手を取れないでいた……。
※平安時代が舞台の恋物語です。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる