お見合いだけど、恋することからはじめよう

佐倉 蘭

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Chap.5 元カレの赤木さん

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「……水野、コーヒー」

   ささやくような声であったが、その鋭さにハッと我に返る。青山の声だった。

   あたしはあわてて、同じ「主任」という役職でも三期上になる赤木さんの方へ先にカップを置き、それから青山の方にカップを置いた。

——青山、ありがとう。助かった。

   あたしは一礼して、小会議室から退出した。


゜゚・*:.。. .。.:*・゜゚・*:.。. .。.:*・゜゚


「顔色、真っ青なんだけど……七海、どうしたのよ?」

   倒れ込むようにして秘書室に入ったあたしに、誓子さんが駆け寄ってきた。

「まさか、社外取締役に対して粗相でもしたの?」

「い、いえ……違うんです」
   あたしは首を振った。

「気分が悪いんだったら、医務室へ行く?それとも、早退する?島村室長にはわたしから言っておくわよ?」
   あたしの顔を覗き込むように誓子さんが言った。

「い、いえ……大丈夫です」
   あたしは再度、首を振った。


   そして、その後はなんとか定時までがんばった。

   あたしは自分のことでいっぱいいっぱいだったから、とても気づく余裕はなかったけれど、誓子さんによると、朝比奈社外取締役にお茶出ししたあとの彩乃さんも、あたしに負けず劣らず顔色が悪くなったらしい。
   とうとう身内が婚家の会社と関わりを持ち始めたのである。「政略結婚」が実を結んだ最初の収穫だ。

    このときのあたしは、彩乃さんの気分がすぐれない原因を、てっきりこれで副社長との結婚が「退くに退けないもの」となってしまったからだとばかり思っていた。


゜゚・*:.。. .。.:*・゜゚・*:.。. .。.:*・゜゚


   メトロの表参道駅に向かう前に、会社の入るビルのエントランスを出たところで、いつものようにスマホをチェックする。

   すると、L◯NEの「友だち」になぜか、消したはずの「赤木 隼人」が入っていた。

——しかも、トークにメッセージが届いている。

【悪い。おまえと仲のよかった法務の白石から、無理を言って連絡先を添付してもらった】

——ともちん、あたしを売ったな?

【今日は緊急の会議で上京しただけで、明日には名古屋に戻る】

——だから、なに?

【七海、会いたい】

   あたしは「設定」にして、彼からのメッセージをブロックすることにした。

   そして、何度かタップしていると……突然、通話がかかってきて、画面が切り替わった。

【赤木 隼人】と表示されていた。

   あたしは、すぐさま切ろうと【拒否】をタップしようとしたが、思い直した。

——会うのは絶対にイヤだから、通話で済ませられるいいチャンスかもしれない。

   小会議室での「邂逅かいこう」は一瞬の出来事だったが、自然と彼の左手薬指に目が行ってしまった。
   そこにはなにもつけられてはいなかったが、だからと言って彼が既婚者でないとは言い切れない。

——目黒先輩だって、結婚指輪してなかったし。

   それに、「あれ」からもう三年も経つのだ。


「……はい」

   あたしは【応答】をタップして、通話に出た。

「なにか、ご用でしょうか?」

   自分でも、冷たく堅い声になっているのに気づいた。

『ひさしぶりに東京に来たんだ。メシでも食いに行こう。なにか食いたいものはあるか?』

   あの頃、あたしの心を一瞬で鷲づかみにした「愛しい」声がそこにあった。「ムチャ振り」か?と思えるほどの強引さも相変わらずだ。

「申し訳ありませんが、急にそうおっしゃられても困ります。それに……もう、赤木さんとは関わりたくありませんので」

   あたしにしては、これでも精いっぱいの「拒絶」だった。

   赤木さんとつき合っていたときのあたしは、なんでも彼の言いなりで、それこそいつも尻尾を振りまくっている仔犬のようだったから。


「……七海」

   不意に、少しくぐもったスマホを通したものではないクリアな響きが、あたしの耳に降りてきた。

   振り向くと、少し先に赤木さんが立っていた。

——しまった。とっとと、メトロに乗って帰るべきだった。

   彼は手にしたスマホを一回タップすると、堂々とした足取りで、あたしのすぐ傍まで近づいてきた。同時に、あたしの手の中のスマホの通話が切れた。

「そがん言葉ばつこうて、なんつやつけとうや?」

   彼の近寄りがたいほどの端正な顔が、人懐っこそうな笑みとともに崩れていく。
   あの頃、あたしだけに向けられていた、と信じていた笑顔だ。


「七海のかわいか博多弁ば……もっぺん、聞かしてくれんね?」

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