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Chapter 2
⑤
しおりを挟む麻琴の家柄が良くない、というわけでは決してない。
祖父の代から三鷹や武蔵野などの地域でTOMITA自動車の販売代理店を経営していて、地元ではちょっとした「名家」である。
(実はそういうことから、ステーショナリーネットに転職する前にTOMITAの系列会社に勤務していたという元セフレの青山に「運命」を感じて、のめり込んでしまった。今となっては麻琴の黒歴史だ。)
子どもの頃からお金に不自由したことはない。中学から大学まで、私立の学校に通わせてもらった。大学は合格する前からなにかと費用のかかる美大だ。
「家業」は二歳下の弟が継ぐことになっている。彼は大学時代からつき合っていた彼女と結婚して、すでに二児の父である。
また、金融庁のキャリア官僚に嫁いだ叔母の娘たち——麻琴には従姉妹にあたる彼女たち——も、すでに手堅く国家公務員と結婚していて、父方の同世代の中で「未婚」なのは麻琴だけだった。
両親はやはり気がかりなのであろう。せめて三十五歳になるまでになんとか片付けたいという思いから、最近躍起になって『堅苦しいものじゃないから、会うだけ会ってみて』と、バレバレの見合い話を持ってくる。
そんな麻琴に松波の「申し出」は、降って湧いたような「良いお話」だ。きっと両親は狂喜乱舞し、弟夫婦はホッと胸をなで下ろすに違いない。
にもかかわらず、麻琴にはどうしても「その一歩」が踏み出せなかった。
一方、江戸の昔、町奉行所で与力を務める幕臣だった松波の家は、御一新のあと明治の世の時流に乗って製糸・紡績会社「松波屋商店」を興した。
幕府の瓦解によって武家から「士族」となった者たちの多くは、困窮を極める生活の中、なんとか娘を官営の富岡製糸場に遣って手に職をつけさせていた。その娘たちの「就職先」を確保するためでもあった。
しかし明治の終わり、日清戦争の戦勝金を充てて官営の八幡製鉄所が造られることになり、当時の松波家の当主はこれからこの国の基幹産業が、軽工業から重工業へと変容していくであろうことを悟った。
だが、だからといっておいそれと造船業や鉄鋼業を創められるほど、松波屋商店に資力があったわけではない。
そこで、当時流行りはじめた衣料品を中心とする「なんでも屋」の「百貨店」を創業することにした。衣料品なら、今までの伝手を利用できるということもあった。
そして、それまで松波屋商店の工場で働いていた女工はそのまま、百貨店「松波屋」で働くデパートガールになった。
時は大正に改まっていた。世の中は大正デモクラシーの自由闊達な風潮の下、第一次大戦の「大戦景気」に沸き返り、松波屋は着々と業績を伸ばしていった。
その後、昭和に入り太平洋戦争の際には人的・物的ともに甚大な被害を受けた。
しかし、それから戦後の朝鮮特需からの高度経済成長やバブル景気という「追い風」を受けたり、石油ショックやバブルの崩壊という「向かい風」を受けたりしながらも、松波屋はこの新しい御世になるまで生き延びてきたのだ。
その松波屋を代々取り仕切ってきた松波家当主は、今ではこの国屈指の老舗百貨店の創業者一族として、名だたる企業が集結する経済団体の重鎮というだけではなく、政治の世界にも顔を利かせる存在にまでなった。
その松波家の嫡流の嗣子——つまり、次代の松波家当主となって、これからの松波屋の采配を振るう運命に生まれついたのが——
松波 恭介だった。
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