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昼下がりの情事(よしなしごと)
Chapter 1
しおりを挟む―志郎―
ある土曜日のうららかな昼下がり。
天野 志郎は、某高級ホテルのロビーから連なるティーラウンジで、一点の曇りもなく磨き込まれた、巨大な一枚ガラスの窓の外に広がる庭園を見つめた。
いや、違う。……窓の外ではなく「巨大な一枚ガラス」を見ていた。
——こんな大きなガラス、搬入するの大変だったろうなぁ。
——いや、それより、こんな壁一面に設置して、耐震はクリアしてるのだろうか?
——いやいやいや、こんな一流ホテルが「耐震偽装」なんてするわけないだろー。
——だけど、そういうのって得てして「えっ、こんな大企業がっ⁉︎」ってとこが出来心でやっちまうんだよなー。
こんなしょうもないことを考えていたのは、なにも彼が設計事務所を営んでいるからではない。約束の時間よりかなり早く着いてしまって、ただただヒマだったからだ。すでにアイスコーヒーは氷だけになっていた。ウェイトレスのお姉さんがちらちらと、こちらを見ている。
——こうなったら、ビールでも飲んでやろうかなー!
これから初めて会うのは、だれがどう見ても、退っ引きならない相手に相違ないから、一杯引っかけておいたほうがいいかもしれない。
そんなふうに思って、ウェイトレスのお姉さんを呼ぼうと右手を上げたら……
ホテルの入り口付近から、フロントの前を通り抜けて、大股でずんずん歩いてくる人影が見えた。
彼がティーラウンジの入り口できょろきょろと、辺りを見渡していたので……ウェイトレスのお姉さんのために上げた志郎の右手だったが、そちらのほうへ方向転換する。
すると、ハッとした顔になって、こちらへ一直線にやってきた。
確実に一八〇センチはあろうかという長身を、今流行りの細身の、ネイビーブルーのスーツが包んでいる。
——脚が、めちゃくちゃ長ーい!絶対に、ジーンズの丈を切ったことない派だー‼︎
自称一七〇センチ(ほんとは一六八センチ)の志郎は、もう、それだけで圧倒されてしまう。おまけに、休日の土曜日だということで、ポロシャツ、チノパンにカジュアルなジャケットで、典型的な、休日のオヤジのゴルフファッションで来てしまった。
相手はメン◯ノンノ(ってもう廃刊になったんだっけ?)から、抜け出たモデルのようだというのに。
ほら、ウェイトレスのお姉さんだって、呼びもしないのに駆け寄って来て、頰を赤く染めながら、もうオーダーを取っているじゃないか。相手の男は、まだ席についてもいないのに……
「……お待たせして申し訳ありません」
彼は立ったまま、三〇度の角度に頭を下げた。ものすごく姿勢がいいので、なんて美しい礼をする人なんだろうと思ってしまった。
——いやいやいや、あなた、約束の時間の十分前ですよ。全然、遅れてませんから。僕が早く来すぎただけですから……
そして、社会人のお約束、名刺交換。
名刺には【魚住 和哉】と記されてあった。
——間違いない。彼は、志郎の妻、天野 美咲の浮気相手だ。
いや、美咲はもうすでに、志郎と別れるために家を出て魚住と暮らしているので「本気の相手」か。
とにかく、興信所で調べてもらった名前も合ってるし、なにより、興信所に張り込んで撮ってもらった写真そのままの顔が……
……目の前にあった。
゜゜・*:.。. .。.:*・゜゜・*:.。. .。.:*・゜゜
―和哉―
——相手が相手だけに遅れるわけにはいくまい。
そう思って、約束の時間よりも前に来たはずだったのに……相手はすでに着いていて、しかも、アイスコーヒーを飲み干していた。
和哉は腕時計を見た。初めて自分の企画が商品化されたとき、自分への褒美だと思って、思わずボーナスほぼ二回分をはたいて買った、王冠のマークの腕時計は自動巻きだったので、知らず識らず遅れていたのかもしれない。これだから、舶来品は信用ならない。
「……お待たせして申し訳ありません」
和哉は美咲の夫に、三〇度の角度で頭を下げた。あとでガッツリやるつもりなので、今は軽くジャブ程度に抑える。
だれに習ったわけでもないが、美咲と出逢った小学生のときにはもう「美しい礼」は確立されていた。
営業のだれかがしくじって、相手が鬱陶しい輩のとき、和哉はこの「礼」をするために駆り出された。相手が年配であればあるほど、この「礼」の威力は凄まじかった。得意先の会長や社長にしようものなら、「ぜひ娘か孫の婿に……‼︎」と懇願される。
——おい、わかってるか、美咲!おまえを離婚させてまで自分の嫁にしたいと思ってるおれは、そういう男なんだぞ‼︎
——あれっ、美咲は確か、夫のことを「理知的」な人だと言っていたが。確かにメガネは掛けてるけど……
目の前で座っているのは、人の善さが全面に滲み出た、親しみやすそうな男だった。これから、そのままゴルフ場にでも行きそうな、ラフな格好をしていた。
和哉は思った。
——あぁ、美咲が、この人ゴルフやってるって言ってたよなぁ。おれ、今まで、接待ゴルフでイヤイヤやってたけど、最近やっと、スコア九〇切れるようになって、なんかやっとおもしろくなってきたとこなんだよなー。
——こういう出会いじゃなかったら、もし得意先で会ったんだったら「ゴルフ、やられるんですよねー、スコアどのくらいで回られるんっすかー」
って聞けたのに……
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