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Chapter 3
契約 ④
しおりを挟む——栞?
突然名前を呼び捨てされた栞は、びっくりして目をぱちくりさせた。
——確か、つい先刻まで、あたしのこと『あんた』って呼んではりませんでしたか?
「結婚して『夫婦』になるんだから『妻』のことを呼び捨てにしてなにが悪い?」
神宮寺はふふん、と不敵に笑った。
——なんか、ムカつくんやけれども……
栞は上目遣いで、じろっと見上げた。
「そもそも……『結婚』ってこんなに簡単に決めてええもんなんですか?先生のご実家は、なんて言うたはるんですか?ご挨拶とか行かなくてもええんですか?」
ちょっと、イヤミっぽく尋ねてみた。
「あぁ、うちは兄貴が大学卒業してすぐに学生時代からつき合ってた彼女とデキ婚したからな。一応、両親には『アシスタントの女と入籍するが、デキ婚ではない。それから、マスコミには絶対に言うな』って、L◯NEで言っといた。そしたら、結納とか結婚式とかのことを聞いてきたから『しない』って返しといた」
だが、神宮寺からはこともなげに返された。
——えっ⁉︎ 『契約結婚』とはいえ、両親にはL◯NEで報告?
栞が思わず顔を顰めると、神宮寺は女親の方は男親のようにあっさりとはいかないのか、と取ったらしく、
「もしかして……そっちは『挨拶に来い』とか言われてるのか?」
と、ちょっとあわてた声で訊いてきた。
「あ、いえ……うちの父親と姉には、まだなにも言っていないので」
栞がそう答えると、神宮寺はいつもの不機嫌な形相になった。
「なんだよ?そっちは報告すらしてねえじゃん!あんた——本っ気で、おれのことに興味ないのな?」
また『あんた』に逆戻りである。なぜかちょっぴり、栞の胸がぎりっとした。
「だって、先生のことをどこまで話していいかわからへんかったし、もともと先生のアシスタントをお引き受けするときにも、先生のお名前はだれにも言わへん約束やったやないですかぁ。それに、いずれ解消することが決定事項の『契約結婚』やから、別にわざわざ言わんくてもええかな?とも思って……」
栞にだって「言い分」があるのだ。
「ふうん……まぁ、言わないで済むものなら、そうしてもらった方がありがたいけどな」
——やっぱし、そうなんや。
「だけど、これからはおれのこと『先生』って呼ぶのはやめろよ」
——はい?
「二十歳そこそこのおれみたいなのを『先生、先生』って呼ぶヤツは信用できねぇからさ。特に、池原みたいなヤツな。あいつ、絶対に心の中じゃおれのこと『先生』なんて思ってないぜ」
神宮寺は吐き捨てるように言った。
「でも、しのぶさんも『先生』って呼んでらっしゃいますよね?」
しのぶは神宮寺よりも十歳上で、池原よりもさらに歳上だった。
「神崎が結婚する前までは違ったさ」
「へぇ、そうなんや。なんて呼ばれてはったんですか?」
そのとき、厳しかった神宮寺の顔がふっ、と緩んではにかんだように見えた。
「……『拓真くん』……だったかな?」
栞は記憶の底に微かに残る、神宮寺が日本ファンタジー大賞新人賞を受賞したときに行われたインタビューの、まだ初々しい高校生だった頃の彼をそこに見た。
「じゃあ、先生、あたしがしのぶさんの代わりに『拓真くん』って、呼んだげましょうか?」
「……はぁ?」
だが、言ってはみたものの、それはなんだか烏滸がましい気がした。
唖然とする神宮寺を尻目に、そのとき栞は閃いた。
「『たっくん』って呼んでもいいですか?」
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