空の蒼 海の碧 山の翠

佐倉 蘭

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Epilogue

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   目覚めたとき、ティーラのかたわらにはチチはいなかった。
   とにかく身体からだ中の力が抜けて、重だるくって仕方がなかったが、彼は半身を起こした。

   そして、彼女の名を呼んだ。

「……チチっ」

   だが、その声は湖の水に吸い込まれていったきりで、彼女の声が返ってくることはなかった。


   彼女とまぐわって味わった、あの絶頂のひとときは、現実にあったことなのであろうか。
   身体中から湧き出て溢れ出したものをすべて、彼女の胎内なかへと放ったのは、幻であったのだろうか。

   まるで霧がかかったようにぼんやりとした意識の中で、ティーラは思った。

   そのとき、彼は自分の下腹部の辺りに赤いものが点々とあるのに気がついた。

——血だ……

   彼はその血がどこから出ているのか確かめるために、自分の身体からだを見回した。
   しかし、その身体のどこにも、かすり傷ひとつなかった。

   もう一度、ティーラはその名を呼んだ。

「……チチっ」

   やはり——彼女の声はなかった。


゜゚・*:.。. .。.:*・゜゚・*:.。. .。.:*・゜゚


   太陽はいつしか西に傾きつつあった。心なしか、吹く風がひんやりとしてきた。

   ティーラはよろよろと立ち上がった。

   そして、湖の水で下腹部の血を洗い流す。血はももの辺りにもついてあった。

   青々と生い茂る草むらに目をやると、彼の下帯したおびが畳んで置いてあるのが見えた。
   屈んでそれを手にした彼は、身につけたあと湖の中に下り立つ。

   それから、まるで鉛のように重く絡みつく水に足を取られながらも、必死になって向こう岸を目指した。
   池と呼んでもよい小さな湖が、とてつもなく大きく感じられた。


   向こう岸に上がったティーラは、猛々しく生い茂る原生林の中を、重い身体からだを引きずるように歩んだ。

   目の前を遮る枝を、ようやく上げた重い腕で打ち払う。だが、打ち払ったはずの枝が、すぐに跳ね返ってきて、彼の肩、胸、そして時には頬を打つ。

   そんなことを何度繰り返したかわからなくなったそのとき、ようやく岸壁らしいものが見えてきた。
   岸壁の上に立ったティーラは、急な坂道をまるで転げ落ちるかのように、尻から滑って行った。
   下の岩場まで降りたところで、見慣れた舟を見つけた。

   舟の上には、マヤーとクガニイルがいた。彼らもティーラを認めて、あわてて手を振った。

   ティーラは膝をついて立ち上がった。


「なかなか舟に戻ってこないからさ。様子を見に、島のぐるりを回っていたのさ」
   舟を岸に寄せて、岩場に上がってきたマヤーが云った。

「おれは先に帰ろう、って云ったんだが、マヤーがおまえを捜すって聞かないからさ」
   後ろからクガニイルも岩場に上がった。

   そのとき、ティーラがいきなり岩場に倒れこんだ。

「ティーラ、どうしたのさっ」

   マヤーの問いかけになにも応えず、ティーラはただぐったりとしていた。

「クガニイル、早くティーラを舟へ運んでっ」

   マヤーが顔をクガニイルに向け、叫んだ。


   その後、クガニイルに背負われて舟に乗せられたティーラは、身を横たえて寝かされていた。
   相変わらず、身体中の力が抜け、ただただ全身が重かった。波に揺られ、ただただ重い身体からだを舟に預けるしかなかった。

   櫂を漕ぐのはクガニイルだ。舟は南島に帰っていた。

「……クガニイル……悪いな……」
   ティーラは生気のない、かすれた声で呟いた。

   昼間までとはまったく異なるその声に、
「なんだ、気持ち悪いな。いったいどうしたのさ」
   クガニイルは目を見開いた。

「まあ、おれも危ないところを助けてもらったからな、お互いさまさ。それより……」

   口の中でもごもごと云ってから、舟尾に首を向けた。そこには横座りしたマヤーが、疲れていたのか、うとうとと寝入っていた。

「おい、アガイティーラよ。あの島で、なにがあったのさ」
   クガニイルが声を落として訊ねた。

   だが、ティーラはそれに関してはなにも答えなかった。そのかわり、
「……ティーラと呼んでくれ。親しい者は、みな、そう呼ぶ」
と云った。

   それを聞いて、クガニイルの片方の口の端が上がる。

「じゃあ、おれのこともクガニと呼んでくれ。……うちの浜の者は、みな、そう呼ぶ」

   それを聞いて、ティーラは目を瞑った。自然と頬が緩んでいた。

「島に戻ったら、北島でなにがあったか絶対吐かせてやるからな」
   ニヤッと笑って、クガニは櫂を漕ぐ手に力を込めた。

   北島が、みるみるうちに離れていく。そして、どんどん遠く、小さくなっていった。










「空の蒼、海の碧、山の翠」〈 完 〉
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