空の蒼 海の碧 山の翠

佐倉 蘭

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   チチはティーラのほうに向き直った。そして、玻瑠はりの目で彼を見た。

   ティーラはチチを怒らせてしまったかと思ったが、彼女の瞳にはその影はなかった。
   ただ、髪と同じく透き通った色の長い睫毛まつげをしばたたかせているだけで、その様子はとまどっているようにしか見えなかった。

——だったら、おれの下帯など投げなければいいのにさ。

   少し心に余裕を感じた彼は、今度は目を逸らさずに彼女をじっと見つめた。
   チチの瞳は向こうを見通せるかと思えるほど澄んでいた。まるでその中に吸い込まれそうだ。
   そこには、その奥にあるものを見てみたい、と思わせるなにかがあった。

   ティーラは手を伸ばした。チチの真っ白な頬に、彼の陽に焼けた指先が触れた。

   その瞬間、彼女は弾かれたようにびくっとし、その拍子に唇が少し開いた。
   その唇は、青白いまでの肌の色とは真反対なまでに赤かった。そして、湿りを帯びて輝き、生き生きと精気に満ちあふれていた。

   ティーラは今までに経験したことのない衝動が込み上げてくるのを感じた。

——その唇に触れたい。この指で……いや、この唇で。

  自分自身の唇で、彼女の唇に触れてみたくなったのだ。
   その衝動は到底抗うことができないものだった。

   ティーラはチチの顔に自分の顔を寄せ、彼女の唇へ自分の唇をのせた。
   潮風にさらされてざらついた彼の唇とは違い、彼女の唇はふんわりとやわらかかった。


   唇を離したティーラは、躊躇ためらいがちにチチを見た。今度こそ彼女が怒っていると思ったからだ。

   だが、彼女の表情に怒りは見られなかった。それどころか、先刻さっきまでのどうしていいのかわからない様子がすっかり消えていた。

「……おまえは、海の向こうから、やってきたのか」

   チチは口を開いて、ティーラに尋ねた。その言葉には、彼が住む島のような訛りはまるでなかった。

「そうさ」
   ティーラは肯いた。

「母が、云った」

   チチは言葉を続けた。

「いつか、海の向こうから、やってくる。わたしたちを……ほしがる者が」

   彼女はゆっくりと一言一言を確かめるような物云いだった。

「母は、その者はまず、口を吸う、と云った」

   ティーラは、自分よりずっと幼さなくてあどけなさそうな少女から「口を吸う」という言葉が出たので、少し驚いた。

「おまえが、そうなのか。おまえは、わたしを……ほしいのか」
   チチは彼を見据えて訊いた。

   ティーラはたじろいた。彼女のまっすぐな玻瑠の瞳に——本当に、吸い込まれそうだったからだ。

「……父も、海の向こうから、やってきた」
   チチは少し話題を変えた。

「おとうとおかあと一緒にこの島に住んでいるのか」
   ティーラは尋ねた。そういえば、この少女については知らないことだらけだった。

   チチは首を振った。

「父も、母も、いない。満月の夜に、舟で、海の向こうへ、行った」

   彼の島には満月の出る日に舟を出してはいけない、という昔からの云い伝えがあった。その日は海の魔物が出て舟を引っくり返す、と信じられていた。
   だから、どんなに晴れていようとも漁は休みだ。

「満月の日に舟を出すとは……自分で自分の命を絶つようなもんさ」
   彼はうめいた。

「でも、お婆がいる。この島で、暮らしている。二人きりで」
   彼女はぼそっと呟いた。

   ティーラは自分の心の中に、チチに対する憐憫の情がじわじわと湧き上がってくるのを感じた。
   彼女がその小さな身体からだで、あたりまえのように孤独を背負っているのが痛々しかった。

   思わず、彼女の子どものようにか細い肩を手元へ引き寄せた。均衡を失った彼女の身はあっという間に、足元の草むらの中に沈んでいった。

「……お父もお母もいないのは、おれも同じさ」

   自分もまた草むらの中に沈みながら、彼女の玻瑠の瞳に向かって、ティーラはささやいた。
   そして、彼女の唇に自分の唇を強く押しつけた。

   唇から離れた彼を、チチは見据えた。先刻さっきした問いをもう一度口にした。

「おまえが、そうなのか。おまえは、わたしを……ほしいのか」

   ティーラも彼女を見据えた。そして、ゆっくりと肯いた。

「……ほしい」

   彼女のまっすぐな玻瑠の瞳に、吸い込まれていく自分を感じた。

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