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大詰
幕引〈参〉
しおりを挟む「ち、違いまする……」
美鶴は首を左右に振った。
「かような下賎の名など、わたくしは聞いたこともござりませぬ」
さもすれば、震え上がってしまいそうになる声を励まして申す。
「な、何の証があって、旦那さまはさようなことを……」
「舞ひつる」が吉原での我が身であったことは、絶対に知られてはならないことであった。
もしも御武家様を欺いたと露わにならば、御公儀より如何なる沙汰が下されて如何ほどの仕置きが命ぜられるか。
身を寄せていた島村家はもちろん、密かに養子縁組を重ねた武家の御家にも塁が及ぶに相違ない。
美鶴の胸の裡に久喜萬字屋のお内儀から、
『あたしらは……たとえ会えなくなっても、一蓮托生だっつうことを決して忘れるんじゃないよ』
『向こうでは、おまえさんが廓の妓だったっつうことを……絶対に知られないようにしとくれよ』
と、釘を刺されたことが甦ってくる。
——よりによって、「若さま」に勘付かれてしまうとは……
兵馬がちっ、と舌打ちをした。
「あいつとまったく瓜二つの顔だってんのに、往生際の悪ぃ奴だ。……そいでもまだ『証』を見せろっ云うんだな」
すると、兵馬は背に襷掛けにして括り付けていた風呂敷包みに手をかけ、結び目を解いた。
「うちのおっ母さんから、おめぇに渡せっ云って頼みごとをされてんのは……なにもあの同心だけじゃねぇぜ」
さように云うと、風呂敷包みを美鶴の方へ突き出す。
美鶴は両の手でそれを受け取った。そして、風呂敷包みの中を覗き込むと……
「も、もしや……」
そこには、兵馬のために美鶴が縫った浴衣とともに、見慣れた黄八丈の着物があった。
まさしくそれは——
美鶴が久喜萬字屋で普段着にしていた、黒繻子の掛け襟が付いた黄八丈だった。
しかも、兵馬と明石稲荷で逢っていた折に必ず着ていた着物だ。
二人は御座敷で会うたことは一度もないゆえ、兵馬は「真っ赤な振袖姿の舞ひつる」は知らぬ。
ゆえに、兵馬にとっては此の黄八丈の姿こそが「舞ひつる」であった。
——島村家へ参ったとたん取り上げられ、もう二度と戻ってくることはあるまい、と思うておったが……
「うちのおっ母さんは、わざわざ婚家に預けるくれぇだから、さぞかし思い入れのある着物だろ、っ云ってたぜ」
と兵馬は云うが、おそらく島村の家にしてみれば美鶴から「預かって」いたものを返した、というだけであろう。
そもそも「武家の妻」となった今、美鶴が町娘のごとき黄八丈を身に纏うことは二度とあるまい。
されども、美鶴にとっては……
母と同じ「呼出(花魁)」になるべく芸事に励んだ、あの日々の「証」である。
そしてまた、 短い間ながらも兵馬と人目を忍んで逢瀬をしていた、明石稲荷でのあの日々を思い起こさせる「証」でもあった。
もしも、身に纏うことはなくとも手許に置いておくことが赦されるのであらば……
——わっちの傍らに……ずっと置いておきとうなんし。
知らず識らずのうちに、風呂敷包みを持つ手に力が篭った。
だが、しかし——
それでも、美鶴は再び首を左右に振った。
「わたくしには……見覚えがありませぬ」
美鶴は兵馬に返すため、風呂敷包みを捧げるように掲げた。
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