119 / 129
大詰
口上〈拾漆〉
しおりを挟む下っ引きの与太から聞いた、舞ひつる——否や美鶴が身を寄せていると云う町へ、兵馬は影丸を走らせた。
昼日中であるがゆえ、いくら与力といえども、人々が行き交う往来を馬で駆け抜けるわけにはいかぬ。少々遠回りであるが、人通りの少ない裏道を通らざるを得ない。
もうすぐその町に着く、と云う手前で兵馬は宿を探した。其処の馬房に影丸を預けるためだ。
目立つ馬を連れて妾宅が並ぶと云われている界隈へ入っていくのは、流石に気が引けた。
宿で馬子に影丸を託したあとは、目指す先まで徒歩である。馬に跨りやすいのと併せて存分に歩けるように、今の兵馬は紺鼠色の着流しに平袴姿であった。
背負った風呂敷包みの紐をしっかりと結び直して、兵馬は歩み始めた。
道すがら、兵馬は今まで知り得たことを頭の中で思い返す。
——御前様は、あいつを側室になさるわけでもござらぬのに、なにゆえかようなことを……
吉原の妓である「舞ひつる」を武家の子女の「美鶴」に仕立てるため、息のかかった者たちを使って養子縁組を繰り返したと思われる。
兵馬は父の多聞から、妻になる美鶴のことを『さる藩の江戸屋敷で生まれ育ったと云う「藩士の娘」だ』と聞かされていた。
『さる藩』と云うのはおそらく、御前様——浅野 近江守が治める安芸国・広島新田藩のことであろう。
——父上とて、どこまで存じてござるのか……
゜゚・*:.。. .。.:*・゜゚・*:.。. .。.:*・゜゚
そうこうしているうちに、其の町が見渡せる処までやってきた。
町家の外れと思われる其処は、辺りに騒がしい長屋もなく、侘しいまでにひっそり閑としていた。
さらに歩を進めて、とうとう目指す仕舞屋を見つける。
——正面から入って訪いを立てるのが、本来でござるが……
突然、祝言を挙げた翌る朝から、新妻である美鶴を一切顧みることなく家を空けてしまったことが、今さらながら甦ってきた。
——少し、様子を伺ってみるか……
仕舞屋は、広さこそ実家の松波家の長屋門ほどであろうが、その周囲は真っ黒な渋墨で塗られた杉板にびっちりと覆われていた。所謂「黒塀」だ。
——これは、ちと厄介でござるな……
外から中を覗き見ることは、いっさいできない。
——どうにかして、門の内に入らねばならぬな。
兵馬は仕舞屋の裏手に回ると、勝手口であろう木戸を見つけた。
周囲を見渡し、人の気配が感じられないのを確かめると、その場に身を屈めた。
そして、すかさず腰から短刀をすっと抜いて、木戸の隙間に差し込む。
そーっと手首を返して短刀を動かしていると、やがてかたり、と音がして閂木が上がった。
吉原で、同心や岡っ引きたちとの御用の際に身につけた技である。
捕物では家内の者に気づかれることなく、すばやく建物の周りを固めねばならぬ。その際に役に立つ技であった。
ただ、歴とした「与力の御曹司」が、この先捕物でさような「小者」がやる役目を果たすことはあるまいが……
物音を立たぬよう静かに木戸を開け、するりと身を滑らせて中へ入る。
黒塀の内側は、外からの目隠しも兼ねて木や草花を植えた前栽となっていた。
兵馬はちょうど良い塩梅とばかりに、木立ちの陰の茂みに身を潜ませた。
其処からしばらく様子を伺っていると、家の裏手にある勝手口の引き戸が開いた。
「おさとと女所帯ゆえ、くれぐれも用心なされまするよう」
出てきた男が振り返って云っていた。着流しに黒羽織の、長身の男であった。
頭は粋な本多髷、腰には長刀・短刀の二本差し、そして裏白の紺足袋に雪駄履き……
——あの男、「同心」か……
あとから、枇杷茶色の小袖を纏った女が出てきた。丸髷に結った髪に剃り落とした眉、お歯黒を付けたさまから人の妻と知れた。
「広次郎さまも……どうか、御役目恙きよう」
兵馬の妻である——美鶴であった。
0
お気に入りに追加
76
あなたにおすすめの小説
陸のくじら侍 -元禄の竜-
陸 理明
歴史・時代
元禄時代、江戸に「くじら侍」と呼ばれた男がいた。かつて武士であるにも関わらず鯨漁に没頭し、そして誰も知らない理由で江戸に流れてきた赤銅色の大男――権藤伊佐馬という。海の巨獣との命を削る凄絶な戦いの果てに会得した正確無比な投げ銛術と、苛烈なまでの剛剣の使い手でもある伊佐馬は、南町奉行所の戦闘狂の美貌の同心・青碕伯之進とともに江戸の悪を討ちつつ、日がな一日ずっと釣りをして生きていくだけの暮らしを続けていた……
永き夜の遠の睡りの皆目醒め
七瀬京
歴史・時代
近藤勇の『首』が消えた……。
新撰組の局長として名を馳せた近藤勇は板橋で罪人として処刑されてから、その首を晒された。
しかし、その首が、ある日忽然と消えたのだった……。
近藤の『首』を巡り、過去と栄光と男たちの愛憎が交錯する。
首はどこにあるのか。
そして激動の時代、男たちはどこへ向かうのか……。
※男性同士の恋愛表現がありますので苦手な方はご注意下さい
WEAK SELF.
若松だんご
歴史・時代
かつて、一人の年若い皇子がいた。
時の帝の第三子。
容姿に優れ、文武に秀でた才ある人物。
自由闊達で、何事にも縛られない性格。
誰からも慕われ、将来を嘱望されていた。
皇子の母方の祖父は天智天皇。皇子の父は天武天皇。
皇子の名を、「大津」という。
かつて祖父が造った都、淡海大津宮。祖父は孫皇子の資質に期待し、宮号を名として授けた。
壬申の乱後、帝位に就いた父親からは、その能力故に政の扶けとなることを命じられた。
父の皇后で、実の叔母からは、その人望を異母兄の皇位継承を阻む障害として疎んじられた。
皇子は願う。自分と周りの者の平穏を。
争いたくない。普通に暮らしたいだけなんだ。幸せになりたいだけなんだ。
幼い頃に母を亡くし、父と疎遠なまま育った皇子。長じてからは、姉とも引き離され、冷たい父の元で暮らした。
愛してほしかった。愛されたかった。愛したかった。
愛を求めて、周囲から期待される「皇子」を演じた青年。
だが、彼に流れる血は、彼を望まぬ未来へと押しやっていく。
ーー父についていくとはどういうことか、覚えておけ。
壬申の乱で散った叔父、大友皇子の残した言葉。その言葉が二十歳になった大津に重く、深く突き刺さる。
遠い昔、強く弱く生きた一人の青年の物語。
―――――――
weak self=弱い自分。
独裁者・武田信玄
いずもカリーシ
歴史・時代
歴史の本とは別の視点で武田信玄という人間を描きます!
平和な時代に、戦争の素人が娯楽[エンターテイメント]の一貫で歴史の本を書いたことで、歴史はただ暗記するだけの詰まらないものと化してしまいました。
『事実は小説よりも奇なり』
この言葉の通り、事実の方が好奇心をそそるものであるのに……
歴史の本が単純で薄い内容であるせいで、フィクションの方が面白く、深い内容になっていることが残念でなりません。
過去の出来事ではありますが、独裁国家が民主国家を数で上回り、戦争が相次いで起こる『現代』だからこそ、この歴史物語はどこかに通じるものがあるかもしれません。
【第壱章 独裁者への階段】 国を一つにできない弱く愚かな支配者は、必ず滅ぶのが戦国乱世の習い
【第弐章 川中島合戦】 戦争の勝利に必要な条件は第一に補給、第二に地形
【第参章 戦いの黒幕】 人の持つ欲を煽って争いの種を撒き、愚かな者を操って戦争へと発展させる武器商人
【第肆章 織田信長の愛娘】 人間の生きる価値は、誰かの役に立つ生き方のみにこそある
【最終章 西上作戦】 人々を一つにするには、敵が絶対に必要である
この小説は『大罪人の娘』を補完するものでもあります。
(前編が執筆終了していますが、後編の執筆に向けて修正中です)
猿の内政官 ~天下統一のお助けのお助け~
橋本洋一
歴史・時代
この世が乱れ、国同士が戦う、戦国乱世。
記憶を失くした優しいだけの少年、雲之介(くものすけ)と元今川家の陪々臣(ばいばいしん)で浪人の木下藤吉郎が出会い、二人は尾張の大うつけ、織田信長の元へと足を運ぶ。織田家に仕官した雲之介はやがて内政の才を発揮し、二人の主君にとって無くてはならぬ存在へとなる。
これは、優しさを武器に二人の主君を天下人へと導いた少年の物語
※架空戦記です。史実で死ぬはずの人物が生存したり、歴史が早く進む可能性があります
肥後の春を待ち望む
尾方佐羽
歴史・時代
秀吉の天下統一が目前になった天正の頃、肥後(熊本)の国主になった佐々成政に対して国人たちが次から次へと反旗を翻した。それを先導した国人の筆頭格が隈部親永(くまべちかなが)である。彼はなぜ、島津も退くほどの強大な敵に立ち向かったのか。国人たちはどのように戦ったのか。そして、九州人ながら秀吉に従い国人衆とあいまみえることになった若き立花統虎(宗茂)の胸中は……。
柳鼓の塩小町 江戸深川のしょうけら退治
月芝
歴史・時代
花のお江戸は本所深川、その隅っこにある柳鼓長屋。
なんでも奥にある柳を蹴飛ばせばポンっと鳴くらしい。
そんな長屋の差配の孫娘お七。
なんの因果か、お七は産まれながらに怪異の類にめっぽう強かった。
徳を積んだお坊さまや、修験者らが加持祈祷をして追い払うようなモノどもを相手にし、
「えいや」と塩を投げるだけで悪霊退散。
ゆえについたあだ名が柳鼓の塩小町。
ひと癖もふた癖もある長屋の住人たちと塩小町が織りなす、ちょっと不思議で愉快なお江戸奇譚。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる