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大詰
口上〈拾陸〉
しおりを挟むすると、志鶴が手を伸ばして、綿紬の浴衣をぺらりと捲った。その下から、女物の着物が現れる。
「あぁ、これは、嫁御の御実家から預かってござったのに、まだ渡してござらぬ着物じゃ」
同じく実家から差し出された持参金の金子の方は、離れて暮らすとならば先立つ物が要るであろうと、実家筋の同心に持たせて渡しておいた。
松波の家から用立てても一向に構わなかったが、それでは遠慮して受け取らぬ恐れがあると思い、そのようにした。
されども、娘時分に着ていたと思われる着物の方はついうっかりして持たせそびれた。
「わざわざ嫁ぎ先に預けるくらいじゃ。さぞかし思い入れのある着物であろう」
志鶴はさように云って、黒繻子の掛け襟が付いた黄八丈の着物をそっと撫でた。
その着物は——「舞ひつる」が久喜萬字屋で着ていたものであった。
御公儀が阿蘭陀と唐以外の国との交易を御禁制にするこの御時世、物資の乏しい我が日の本では大名や豪商ならいざ知らず、庶民には着物の持ち合わせなぞとんとない。着た切り雀である。
舞ひつるもまた、いつも同じ着物を普段着としていた。久喜萬字屋から「押し着せ」として与えられた黄八丈だ。
しかしながら、八丈島で織られた八丈絹「黄八丈」は普段着にするにしては高直であった。ゆえに、巷では他処で織られた安価な偽物が出回っているくらいだ。
久喜萬字屋が「虎の子」の振袖新造・舞ひつるに与えたのは、黄色地に黒い縞格子が入った正真正銘の「本場黄八丈」であった。
「……さようであったか」
兵馬の心に、黄八丈の着物に真っ白な前掛けをした舞ひつるの姿が、ありありと甦ってきた。
——どうやら、とんだ思い違いをしておったな……
「弥吉っ、影丸の支度をしろっ」
兵馬は背後にいる弥吉に命じた。
弥吉は一つ肯くと、厩から鞍を持ってきて影丸の背に、ばさりと被せた。そして、面繋を掛けたあと、その口に轡を噛ませて手綱をとる。
「母上、御無礼仕った。これより、某が我が妻を迎えに参るゆえ、どうかお赦しくだされ」
兵馬は母に向かって頭を下げた。
「おせい、その風呂敷包みをよこせ。某が渡そうぞ」
おせいの顔が、ぱっと輝く。腕に抱えた風呂敷包みを、すぐさま兵馬へと手渡す。
風呂敷包みを受け取った兵馬は、襷掛けにして我が身に括り付けた。
「兵馬、わたくしに謝ることなぞござらぬ。そなたが謝るべきはそなたの嫁御——美鶴殿にてござりまする」
——あぁ、そうか……その名が……あの夜、聞きそびれた……「真名」であったか。
弥吉が影丸の手綱を引いてやってきた。
「若、どうぞ乗っておくんなせぇ」
「おう、ありがとよ」
兵馬は礼を云うと、鐙に片足をかけ、ひらり、とその背に跨った。
「御新造さんと……よっく話をしておくんなせぇよ」
馬上の人となった兵馬を見上げて、弥吉は祈るような目で云った。
「お互い、あとで悔いが残んねえように……」
すかさず兵馬は、おせいに目を遣った。すると、おせいは気まずげに目を逸らせた。
志鶴はその姿を見て、お互いいつまで意地を張っておるのか、と焦ったそうに顔を顰めている。
「……相判った」
——おまえたちの二の舞にはなるまいぞ。
弥吉がとっていた手綱から手を離して兵馬に託すと、すーっと後ろへ下がっていく。
「影丸……いざ、参るぞ」
兵馬は一声かけると、ぐっと手前に手綱を引いた。
影丸は雄叫びのように嘶くと、その鶴首をしならせた。それから、左右の前脚を澄み渡った青空に向けて上げ、主人に応える。
その両脚が地面に下りたと同時に、兵馬は鐙で影丸の横腹をカッと蹴った。
影丸はしなやかな尾を大きく一振りすると、長屋門の向こうに広がる外の世界へ向かって、軽やかに駆け出した。
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