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大詰
口上〈拾伍〉
しおりを挟む翌る日、兵馬は非番であった南町奉行所の朋輩で義弟の本田 主税に、明晩の宿直を代わることを条件に、本日の御役目を引き受けさせた。
身体の空いた兵馬は、ひさかたぶりに実家である松波の御家に帰ることにした。
その道すがら、兵馬の心に過るのは……
——御前様が、あいつを身請けされたのであろうか……
いくら「側室」にする心算であろうと、大名家が吉原の妓を身請けするなぞ、やはり一筋縄ではいかぬことだ。
そう云えば、御前様の懐妊されていた奥方様が、つい先頃、御胎の御子を儚くされたばかりだと聞き及んでいた。
ゆえに、それを慮った御前様が、奥方様に知られることなく舞ひつるをあの町で囲っているのかもしれぬ。
——とにもかくにも……一刻も早く、仔細を確かめねば……
゜゚・*:.。. .。.:*・゜゚・*:.。. .。.:*・゜゚
家に帰った兵馬は、屋敷内には立ち入らず、真っ直ぐ厩へとその足を向けた。
「……弥吉っ」
馬の毛並みに沿って梳いていた、奉公人の名を呼ぶ。兵馬が生まれるずっと前から、此の家に仕えてきた中間の男だ。
「若……今までどこにいなすったんでさ」
陽に照らされ濡れたような艶を放つ馬から、手を下ろした弥吉は尋ねた。
「悪りぃが、話は後だ。急ぎの用なのよ。影丸はすぐにでも出せるかい」
松波家では、手に入れた黒鹿毛の名馬を代々「影丸」と名付けていた。
「まさか、こんな昼日中に町中で馬をかっ飛ばしなさるんじゃ……」
「今のおれは、お上品に駕籠に乗ってくわけにゃあ、いかねぇんだ。それに、人気のねえ裏道を、ちっとばっか影丸で駆けるぐれぇだからよ。心配は無用だぜ」
「——なにが『心配は無用』でござりまするか」
いきなり声が聞こえてきて、兵馬はその声の出処と思われる方へ顔を向けた。
「ようやく帰ってきたかと思えば、母家にも入らず厩なぞでこそこそと……」
其処にいたのは、母・志鶴であった。
「兵馬、情けないにも程があるぞよ。恥を知れ」
もし、母・志鶴が町方与力の妻女でなく、源氏判官義経であらば、直ちにその腰からすらりと太刀を引き抜いて、兵馬めがけて一気に袈裟懸けに切り込んできそうな風情であった。
また母だけではなく、その後ろにまるで武蔵坊弁慶のごとく控える女中頭・おせいも、凄まじい目で兵馬を睨みつけていた。
一刻を争わねばならぬと云うに、厄介な者たちに捕まってしまった。兵馬は舌打ちしたい心持ちであった。
「母上、しばし家を空けてござったことはお詫びいたす。その上で誠に申し訳のうござるが、某はちと先を急ぐうえ……」
「そなた、嫁御を迎えに行くがゆえに帰ってござったのではないのか」
「天女」の凍え切った目で、志鶴が息子を問いただす。
「……ほう、『嫁御殿』は祝言を挙げて早々、もう出て行ってござったか」
兵馬はにやり、と笑った。向こうから出て行ってくれたのであらば、正直なところ手間が省ける。
「若さまがっ、ちっとも家に居りなさらんもんだから、御新造さんに愛想つかされちまったんでさっ」
どうにも堪えきれず、おせいが口を挟んだ。
「おせい、若に向かって何て口をきいてやがんだっ」
弥吉があわてて制する。おせいとは、かつて所帯を持っていた。
「おせい、某は御公儀に仕える身だ。此れしきのことが辛抱できぬ者なら、仕方あるまい。……端から縁がなかったと思え」
兵馬は引導を渡すようにきっぱりと告げた。
先般、妻となった女は諸藩の下屋敷で生まれ育ったと聞く。そもそも町方役人の妻なぞ、我が身には役不足であると侮っておったのかもしれぬ。
「ご、御新造さんは……若さまのために……こうして……浴衣をお縫いなさって待ってたってのに……っ」
おせいが声を詰まらせつつ、胸に抱えていた風呂敷包みに視線を落とす。
「だれが縫うたか云わぬよう、固く口止めされてござったのだが、致し方ない。おせい、包みを解いて、その浴衣を兵馬に見せるのじゃ」
志鶴に命じられ、おせいはすぐさま結び目をはらりと解いた。
皆の視線が、風呂敷包みの中に集まる。
「お、おせい……そいつは何だ……」
なぜか、兵馬の顔つきがみるみるうちに険しくなっていく。
「何だ、って云われても……『浴衣』でさ」
おせいは訝しげに答えた。だれがどう見ても、風呂敷包みの中にあるのは縦縞の男物の浴衣である。
「夏だけじゃのうて春や秋にも湯屋帰りに若さまに着てもらいたいってんで、御新造さんは綿紬で仕立てなすったんでやす」
「いや、浴衣を訊いているのではあらぬ。知りたいのは……その下にござる着物の方だ」
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