117 / 129
大詰
口上〈拾伍〉
しおりを挟む翌る日、兵馬は非番であった南町奉行所の朋輩で義弟の本田 主税に、明晩の宿直を代わることを条件に、本日の御役目を引き受けさせた。
身体の空いた兵馬は、ひさかたぶりに実家である松波の御家に帰ることにした。
その道すがら、兵馬の心に過るのは……
——御前様が、あいつを身請けされたのであろうか……
いくら「側室」にする心算であろうと、大名家が吉原の妓を身請けするなぞ、やはり一筋縄ではいかぬことだ。
そう云えば、御前様の懐妊されていた奥方様が、つい先頃、御胎の御子を儚くされたばかりだと聞き及んでいた。
ゆえに、それを慮った御前様が、奥方様に知られることなく舞ひつるをあの町で囲っているのかもしれぬ。
——とにもかくにも……一刻も早く、仔細を確かめねば……
゜゚・*:.。. .。.:*・゜゚・*:.。. .。.:*・゜゚
家に帰った兵馬は、屋敷内には立ち入らず、真っ直ぐ厩へとその足を向けた。
「……弥吉っ」
馬の毛並みに沿って梳いていた、奉公人の名を呼ぶ。兵馬が生まれるずっと前から、此の家に仕えてきた中間の男だ。
「若……今までどこにいなすったんでさ」
陽に照らされ濡れたような艶を放つ馬から、手を下ろした弥吉は尋ねた。
「悪りぃが、話は後だ。急ぎの用なのよ。影丸はすぐにでも出せるかい」
松波家では、手に入れた黒鹿毛の名馬を代々「影丸」と名付けていた。
「まさか、こんな昼日中に町中で馬をかっ飛ばしなさるんじゃ……」
「今のおれは、お上品に駕籠に乗ってくわけにゃあ、いかねぇんだ。それに、人気のねえ裏道を、ちっとばっか影丸で駆けるぐれぇだからよ。心配は無用だぜ」
「——なにが『心配は無用』でござりまするか」
いきなり声が聞こえてきて、兵馬はその声の出処と思われる方へ顔を向けた。
「ようやく帰ってきたかと思えば、母家にも入らず厩なぞでこそこそと……」
其処にいたのは、母・志鶴であった。
「兵馬、情けないにも程があるぞよ。恥を知れ」
もし、母・志鶴が町方与力の妻女でなく、源氏判官義経であらば、直ちにその腰からすらりと太刀を引き抜いて、兵馬めがけて一気に袈裟懸けに切り込んできそうな風情であった。
また母だけではなく、その後ろにまるで武蔵坊弁慶のごとく控える女中頭・おせいも、凄まじい目で兵馬を睨みつけていた。
一刻を争わねばならぬと云うに、厄介な者たちに捕まってしまった。兵馬は舌打ちしたい心持ちであった。
「母上、しばし家を空けてござったことはお詫びいたす。その上で誠に申し訳のうござるが、某はちと先を急ぐうえ……」
「そなた、嫁御を迎えに行くがゆえに帰ってござったのではないのか」
「天女」の凍え切った目で、志鶴が息子を問いただす。
「……ほう、『嫁御殿』は祝言を挙げて早々、もう出て行ってござったか」
兵馬はにやり、と笑った。向こうから出て行ってくれたのであらば、正直なところ手間が省ける。
「若さまがっ、ちっとも家に居りなさらんもんだから、御新造さんに愛想つかされちまったんでさっ」
どうにも堪えきれず、おせいが口を挟んだ。
「おせい、若に向かって何て口をきいてやがんだっ」
弥吉があわてて制する。おせいとは、かつて所帯を持っていた。
「おせい、某は御公儀に仕える身だ。此れしきのことが辛抱できぬ者なら、仕方あるまい。……端から縁がなかったと思え」
兵馬は引導を渡すようにきっぱりと告げた。
先般、妻となった女は諸藩の下屋敷で生まれ育ったと聞く。そもそも町方役人の妻なぞ、我が身には役不足であると侮っておったのかもしれぬ。
「ご、御新造さんは……若さまのために……こうして……浴衣をお縫いなさって待ってたってのに……っ」
おせいが声を詰まらせつつ、胸に抱えていた風呂敷包みに視線を落とす。
「だれが縫うたか云わぬよう、固く口止めされてござったのだが、致し方ない。おせい、包みを解いて、その浴衣を兵馬に見せるのじゃ」
志鶴に命じられ、おせいはすぐさま結び目をはらりと解いた。
皆の視線が、風呂敷包みの中に集まる。
「お、おせい……そいつは何だ……」
なぜか、兵馬の顔つきがみるみるうちに険しくなっていく。
「何だ、って云われても……『浴衣』でさ」
おせいは訝しげに答えた。だれがどう見ても、風呂敷包みの中にあるのは縦縞の男物の浴衣である。
「夏だけじゃのうて春や秋にも湯屋帰りに若さまに着てもらいたいってんで、御新造さんは綿紬で仕立てなすったんでやす」
「いや、浴衣を訊いているのではあらぬ。知りたいのは……その下にござる着物の方だ」
0
お気に入りに追加
76
あなたにおすすめの小説
幻の十一代将軍・徳川家基、死せず。長谷川平蔵、田沼意知、蝦夷へ往く。
克全
歴史・時代
西欧列強に不平等条約を強要され、内乱を誘発させられ、多くの富を収奪されたのが悔しい。
幕末の仮想戦記も考えましたが、徳川家基が健在で、田沼親子が権力を維持していれば、もっと余裕を持って、開国準備ができたと思う。
北海道・樺太・千島も日本の領地のままだっただろうし、多くの金銀が国外に流出することもなかったと思う。
清国と手を組むことも出来たかもしれないし、清国がロシアに強奪された、シベリアと沿海州を日本が手に入れる事が出来たかもしれない。
色々真剣に検討して、仮想の日本史を書いてみたい。
一橋治済の陰謀で毒を盛られた徳川家基であったが、奇跡的に一命をとりとめた。だが家基も父親の十代将軍:徳川家治も誰が毒を盛ったのかは分からなかった。家基は田沼意次を疑い、家治は疑心暗鬼に陥り田沼意次以外の家臣が信じられなくなった。そして歴史は大きく動くことになる。
印旛沼開拓は成功するのか?
蝦夷開拓は成功するのか?
オロシャとは戦争になるのか?
蝦夷・千島・樺太の領有は徳川家になるのか?
それともオロシャになるのか?
西洋帆船は導入されるのか?
幕府は開国に踏み切れるのか?
アイヌとの関係はどうなるのか?
幕府を裏切り異国と手を結ぶ藩は現れるのか?
陣代『諏訪勝頼』――御旗盾無、御照覧あれ!――
黒鯛の刺身♪
歴史・時代
戦国の巨獣と恐れられた『武田信玄』の実質的後継者である『諏訪勝頼』。
一般には武田勝頼と記されることが多い。
……が、しかし、彼は正統な後継者ではなかった。
信玄の遺言に寄れば、正式な後継者は信玄の孫とあった。
つまり勝頼の子である信勝が後継者であり、勝頼は陣代。
一介の後見人の立場でしかない。
織田信長や徳川家康ら稀代の英雄たちと戦うのに、正式な当主と成れず、一介の後見人として戦わねばならなかった諏訪勝頼。
……これは、そんな悲運の名将のお話である。
【画像引用】……諏訪勝頼・高野山持明院蔵
【注意】……武田贔屓のお話です。
所説あります。
あくまでも一つのお話としてお楽しみください。
滝川家の人びと
卯花月影
歴史・時代
故郷、甲賀で騒動を起こし、国を追われるようにして出奔した
若き日の滝川一益と滝川義太夫、
尾張に流れ着いた二人は織田信長に会い、織田家の一員として
天下布武の一役を担う。二人をとりまく織田家の人々のそれぞれの思惑が
からみ、紆余曲折しながらも一益がたどり着く先はどこなのか。
イケメン社長と私が結婚!?初めての『気持ちイイ』を体に教え込まれる!?
すずなり。
恋愛
ある日、彼氏が自分の住んでるアパートを引き払い、勝手に『同棲』を求めてきた。
「お前が働いてるんだから俺は家にいる。」
家事をするわけでもなく、食費をくれるわけでもなく・・・デートもしない。
「私は母親じゃない・・・!」
そう言って家を飛び出した。
夜遅く、何も持たず、靴も履かず・・・一人で泣きながら歩いてるとこを保護してくれた一人の人。
「何があった?送ってく。」
それはいつも仕事場のカフェに来てくれる常連さんだった。
「俺と・・・結婚してほしい。」
「!?」
突然の結婚の申し込み。彼のことは何も知らなかったけど・・・惹かれるのに時間はかからない。
かっこよくて・・優しくて・・・紳士な彼は私を心から愛してくれる。
そんな彼に、私は想いを返したい。
「俺に・・・全てを見せて。」
苦手意識の強かった『営み』。
彼の手によって私の感じ方が変わっていく・・・。
「いあぁぁぁっ・・!!」
「感じやすいんだな・・・。」
※お話は全て想像の世界のものです。現実世界とはなんら関係ありません。
※お話の中に出てくる病気、治療法などは想像のものとしてご覧ください。
※誤字脱字、表現不足は重々承知しております。日々精進してまいりますので温かく見ていただけると嬉しいです。
※コメントや感想は受け付けることができません。メンタルが薄氷なもので・・すみません。
それではお楽しみください。すずなり。
暁のミッドウェー
三笠 陣
歴史・時代
一九四二年七月五日、日本海軍はその空母戦力の総力を挙げて中部太平洋ミッドウェー島へと進撃していた。
真珠湾以来の歴戦の六空母、赤城、加賀、蒼龍、飛龍、翔鶴、瑞鶴が目指すのは、アメリカ海軍空母部隊の撃滅。
一方のアメリカ海軍は、暗号解読によって日本海軍の作戦を察知していた。
そしてアメリカ海軍もまた、太平洋にある空母部隊の総力を結集して日本艦隊の迎撃に向かう。
ミッドウェー沖で、レキシントン、サラトガ、ヨークタウン、エンタープライズ、ホーネットが、日本艦隊を待ち構えていた。
日米数百機の航空機が入り乱れる激戦となった、日米初の空母決戦たるミッドウェー海戦。
その幕が、今まさに切って落とされようとしていた。
(※本作は、「小説家になろう」様にて連載中の同名の作品を転載したものです。)
四代目 豊臣秀勝
克全
歴史・時代
アルファポリス第5回歴史時代小説大賞参加作です。
読者賞を狙っていますので、アルファポリスで投票とお気に入り登録してくださると助かります。
史実で三木城合戦前後で夭折した木下与一郎が生き延びた。
秀吉の最年長の甥であり、秀長の嫡男・与一郎が生き延びた豊臣家が辿る歴史はどう言うモノになるのか。
小牧長久手で秀吉は勝てるのか?
朝日姫は徳川家康の嫁ぐのか?
朝鮮征伐は行われるのか?
秀頼は生まれるのか。
秀次が後継者に指名され切腹させられるのか?
元おっさんの俺、公爵家嫡男に転生~普通にしてるだけなのに、次々と問題が降りかかってくる~
おとら@ 書籍発売中
ファンタジー
アルカディア王国の公爵家嫡男であるアレク(十六歳)はある日突然、前触れもなく前世の記憶を蘇らせる。
どうやら、それまでの自分はグータラ生活を送っていて、ろくでもない評判のようだ。
そんな中、アラフォー社畜だった前世の記憶が蘇り混乱しつつも、今の生活に慣れようとするが……。
その行動は以前とは違く見え、色々と勘違いをされる羽目に。
その結果、様々な女性に迫られることになる。
元婚約者にしてツンデレ王女、専属メイドのお調子者エルフ、決闘を仕掛けてくるクーデレ竜人姫、世話をすることなったドジっ子犬耳娘など……。
「ハーレムは嫌だァァァァ! どうしてこうなった!?」
今日も、そんな彼の悲鳴が響き渡る。
枢軸国
よもぎもちぱん
歴史・時代
時は1919年
第一次世界大戦の敗戦によりドイツ帝国は滅亡した。皇帝陛下 ヴィルヘルム二世の退位により、ドイツは共和制へと移行する。ヴェルサイユ条約により1320億金マルク 日本円で200兆円もの賠償金を課される。これに激怒したのは偉大なる我らが総統閣下"アドルフ ヒトラー"である。結果的に敗戦こそしたものの彼の及ぼした影響は非常に大きかった。
主人公はソフィア シュナイダー
彼女もまた、ドイツに転生してきた人物である。前世である2010年頃の記憶を全て保持しており、映像を写真として記憶することが出来る。
生き残る為に、彼女は持てる知識を総動員して戦う
偉大なる第三帝国に栄光あれ!
Sieg Heil(勝利万歳!)
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる