大江戸シンデレラ

佐倉 蘭

文字の大きさ
上 下
111 / 129
大詰

口上〈玖〉

しおりを挟む

「そりゃあ、今のおめぇさんは、もう久喜萬字屋の『玉ノ緒』じゃねえからよ」

   茶汲み女に茶を所望すると、兵馬は一番奥の小上がりまで歩み、雪駄を脱ぎながら云った。

「すっかり嫁ぎ先の……淡路屋の『若女将』になっちまったな」

   すでに小上がりに座していた玉ノ緒——おゆふが、ふふふ…と微笑んだ。

「ええ、おかげさんで」

   れは見世にいた頃の、艶を含んではいるが徒花あだばなのごとき何処どこうつろな笑みではなかった。
   地に足をつけた仕合わせを手にした者だけができる、穏やかで満ち足りた笑みであった。

「されども、わっちなぞ、まだまだでありんす。おさとの物云いですら抜けずじまいなんし」

   だが、淡路屋の若旦那である亭主からはもちろん、舅や姑そしておたなの者たちからですら、無理に町家言葉になおすことはないと云われていた。
   淡路屋でのおゆふ・・・は、まさに上の物を下へも置かぬ扱いであった。

「今は……おたなの仔細を覚えるよりも、この子を産むことが『勤め』と、みなから云われとりんす。わっちも、この子が無事に生まれてきなんしを、ただひたすら願っとりんす」

   おゆふは、まだほとんど膨らみのない我がはらを愛おしげに撫でた。

「そうか……そいつぁ、目出度めでてぇな」

   特に、歳おそくなってから跡取り息子をもうけた淡路屋の主人あるじにとっては、こないに早く孫の顔を見られようとは思いもよらぬことであろう。きっと、この世の春に違いない。

「そいじゃあ、おめぇさんがおもてへ出るってぇなったら、亭主も気が気じゃねえだろよ」

   兵馬は外へ向けて壁の方に目を送った。

此処ここへ来る道中、やたらと手代を見かけたぜ。……淡路屋のたなもんだろ。おめぇの亭主もいたかもな」

   そして、ニヤリと笑った。

   将来の跡取りになるやもしれぬ子を身籠った若女将に、もしものことがあらば「淡路屋の一大事」だ。できるならば、外になぞ出したくはなかったであろう。

   されども、岡っ引きが間に入っての町方与力の「御用向き」である。町家の、しかもあきないを稼業とする身とあらば断るわけにはいくまい。

   さらにその町方与力とは、ちまたでおなごたちが黄色い声をあげる「浮世絵与力のせがれ」であった。

   その与力は、若女将に供を付けることも認めず、たった二人きりで会わせろと云う。
   まるで「媾曳あいびき」ではないか。

   おゆふの亭主は、やっとの思いで手に入れた我が「恋女房」に、この与力がいったい何の話があるのか、と真っ青になった。

   そこで、店の若衆である手代たちを駆り出させて、たとえ遠巻きにでも見張らせることにした。
   そして、我が身もまた店を放っぽりだして、この日は付きっきりで采配することと相成った。

「もしかしたら……この壁の向こうで、だれかが聞き耳を立ててっかもしんねぇな」

   その刹那、壁の向こうで、がたりと大きな音がした。すかさず、ざわざわと人の声も聞こえてくる。

「慣れねぇことは、するもんじゃねえな」
   兵馬がくくくっ…と笑った。

   おゆふも大きく声をたてて笑った。久喜萬字屋では御法度の笑い声だった。


「……それで若さま、本日はどんな御用向きでなんしかえ」

   ひとしきり笑ったあと、おゆふが表情を引き締めて問うてきた。

「わっちをこないにまでして呼び出しなんしたからには、とも聞きたいことがおありでござんしょう」

「あぁ、そいつなんだがな。……おめぇさんは『舞ひつる』が何処どこへ行っちまったか、知ってるかい」

しおりを挟む
感想 4

あなたにおすすめの小説

富嶽を駆けよ

有馬桓次郎
歴史・時代
★☆★ 第10回歴史・時代小説大賞〈あの時代の名脇役賞〉受賞作 ★☆★ https://www.alphapolis.co.jp/prize/result/853000200  天保三年。  尾張藩江戸屋敷の奥女中を勤めていた辰は、身長五尺七寸の大女。  嫁入りが決まって奉公も明けていたが、女人禁足の山・富士の山頂に立つという夢のため、養父と衝突しつつもなお深川で一人暮らしを続けている。  許婚の万次郎の口利きで富士講の大先達・小谷三志と面会した辰は、小谷翁の手引きで遂に富士山への登拝を決行する。  しかし人目を避けるために選ばれたその日程は、閉山から一ヶ月が経った長月二十六日。人跡の絶えた富士山は、五合目から上が完全に真冬となっていた。  逆巻く暴風、身を切る寒気、そして高山病……数多の試練を乗り越え、無事に富士山頂へ辿りつくことができた辰であったが──。  江戸後期、史上初の富士山女性登頂者「高山たつ」の挑戦を描く冒険記。

大日本帝国、アラスカを購入して無双する

雨宮 徹
歴史・時代
1853年、ロシア帝国はクリミア戦争で敗戦し、財政難に悩んでいた。友好国アメリカにアラスカ購入を打診するも、失敗に終わる。1867年、すでに大日本帝国へと生まれ変わっていた日本がアラスカを購入すると金鉱や油田が発見されて……。 大日本帝国VS全世界、ここに開幕! ※架空の日本史・世界史です。 ※分かりやすくするように、領土や登場人物など世界情勢を大きく変えています。 ※ツッコミどころ満載ですが、ご勘弁を。

鵺の哭く城

崎谷 和泉
歴史・時代
鵺に取り憑かれる竹田城主 赤松広秀は太刀 獅子王を継承し戦国の世に仁政を志していた。しかし時代は冷酷にその運命を翻弄していく。本作は竹田城下400年越しの悲願である赤松広秀公の名誉回復を目的に、その無二の友 儒学者 藤原惺窩の目を通して描く短編小説です。

小童、宮本武蔵

雨川 海(旧 つくね)
歴史・時代
兵法家の子供として生まれた弁助は、野山を活発に走る小童だった。ある日、庄屋の家へ客人として旅の武芸者、有馬喜兵衛が逗留している事を知り、見学に行く。庄屋の娘のお通と共に神社へ出向いた弁助は、境内で村人に稽古をつける喜兵衛に反感を覚える。実は、弁助の父の新免無二も武芸者なのだが、人気はさっぱりだった。つまり、弁助は喜兵衛に無意識の内に嫉妬していた。弁助が初仕合する顚末。 備考 井上雄彦氏の「バガボンド」や司馬遼太郎氏の「真説 宮本武蔵」では、武蔵の父を無二斎としていますが、無二の説もあるため、本作では無二としています。また、通説では、武蔵の父は幼少時に他界している事になっていますが、関ヶ原の合戦の時、黒田如水の元で九州での戦に親子で参戦した。との説もあります。また、佐々木小次郎との決闘の時にも記述があるそうです。 その他、諸説あり、作品をフィクションとして楽しんでいただけたら幸いです。物語を鵜呑みにしてはいけません。 宮本武蔵が弁助と呼ばれ、野山を駆け回る小僧だった頃、有馬喜兵衛と言う旅の武芸者を見物する。新当流の達人である喜兵衛は、派手な格好で神社の境内に現れ、門弟や村人に稽古をつけていた。弁助の父、新免無二も武芸者だった為、その盛況ぶりを比較し、弁助は嫉妬していた。とは言え、まだ子供の身、大人の武芸者に太刀打ちできる筈もなく、お通との掛け合いで憂さを晴らす。 だが、運命は弁助を有馬喜兵衛との対決へ導く。とある事情から仕合を受ける事になり、弁助は有馬喜兵衛を観察する。当然だが、心技体、全てに於いて喜兵衛が優っている。圧倒的に不利な中、弁助は幼馴染みのお通や又八に励まされながら仕合の準備を進めていた。果たして、弁助は勝利する事ができるのか? 宮本武蔵の初死闘を描く! 備考 宮本武蔵(幼名 弁助、弁之助) 父 新免無二(斎)、武蔵が幼い頃に他界説、親子で関ヶ原に参戦した説、巌流島の決闘まで存命説、など、諸説あり。 本作は歴史の検証を目的としたものではなく、脚色されたフィクションです。

剣客居酒屋 草間の陰

松 勇
歴史・時代
酒と肴と剣と闇 江戸情緒を添えて 江戸は本所にある居酒屋『草間』。 美味い肴が食えるということで有名なこの店の主人は、絶世の色男にして、無双の剣客でもある。 自分のことをほとんど話さないこの男、冬吉には実は隠された壮絶な過去があった。 多くの江戸の人々と関わり、その舌を満足させながら、剣の腕でも人々を救う。 その慌し日々の中で、己の過去と江戸の闇に巣食う者たちとの浅からぬ因縁に気付いていく。 店の奉公人や常連客と共に江戸を救う、包丁人にして剣客、冬吉の物語。

直違の紋に誓って

篠川翠
歴史・時代
かつて、二本松には藩のために戦った少年たちがいた。 故郷を守らんと十四で戦いに臨み、生き延びた少年は、長じて何を学んだのか。 二本松少年隊最後の生き残りである武谷剛介。彼が子孫に残された話を元に、二本松少年隊の実像に迫ります。

鄧禹

橘誠治
歴史・時代
再掲になります。 約二千年前、古代中国初の長期統一王朝・前漢を簒奪して誕生した新帝国。 だが新も短命に終わると、群雄割拠の乱世に突入。 挫折と成功を繰り返しながら後漢帝国を建国する光武帝・劉秀の若き軍師・鄧禹の物語。 -------------------------------------------------------------------------------------------------------------------- 歴史小説家では宮城谷昌光さんや司馬遼太郎さんが好きです。 歴史上の人物のことを知るにはやっぱり物語がある方が覚えやすい。 上記のお二人の他にもいろんな作家さんや、大和和紀さんの「あさきゆめみし」に代表される漫画家さんにぼくもたくさんお世話になりました。 ぼくは特に古代中国史が好きなので題材はそこに求めることが多いですが、その恩返しの気持ちも込めて、自分もいろんな人に、あまり詳しく知られていない歴史上の人物について物語を通して伝えてゆきたい。 そんな風に思いながら書いています。

ママと中学生の僕

キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。

処理中です...