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大詰
口上〈陸〉
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ある日、松波 多聞が嫡男の兵馬を連れて、妻と胎の子に会いにやってきた。
多聞は佐久間家の家人への挨拶もそこそこに、愛妻・志鶴の部屋へ息子を連れて向かっていく。
帯刀は、すかさず矢立てと反故紙を引っ掴んだ。そして、庭に面した回廊を通る多聞を尻目に部屋から部屋へと通り抜けて先回りし、志鶴が嫁入り前から使っている座敷の隣にある部屋へ飛び込んだ。
実は、帯刀の代表作「八丁堀浮世募恋鞘当」は、かようにして知り得た妹夫婦の経緯をものして世に出した戯作であった。
襖越しに伝わってくる、隣室にたどり着いた多聞と迎え入れる志鶴の声に聞き耳を立てながら、帯刀が一心不乱に筆を走らせていたそのときである。
『……おじうえ、なにをしてござるか』
振り向くと、角大師の髪の幼子が帯刀の手元を覗き込んでいた。
——兵馬であった。
『それがし、ははうえよりすでに、てならいをおそわりてござる』
兵馬は帯刀が反故紙に筆で走らせた変体仮名を見て、得意げに胸を張った。
帯刀は、早々と我が子への教育に熱を入れる志鶴を恨めしく思った。
『おじうえ、まことでござるぞ。それがし、うそはもうさぬ。えーっと……「あるよ…まちわびしをのこ…ひさかたぶりに…をんなのもと…まゐりたりて」』
あわてて帯刀は兵馬の口を手のひらで塞ぐ。
『お、おまえが字の読めるは承知したゆえ、声を上げるでないっ』
切羽詰まった押し殺した声で制す。
『そ、そうだ……』
咄嗟に、帯刀に妙案が閃いた。
『兵馬、もう字を読めるのであらば……一人前の武家の男として、立派に御役目に就けようぞ』
兵馬は驚きのあまり、その目をめいっぱい見開いた。
『さすれば、そちに……たった今から「隠密」の御役目を任ずる』
さように告げて、帯刀は幼子の口を塞いでいた手のひらから、すっと力を抜いた。
『それがしが……いちにんまえの……ぶけのおのこ……「おんみつ」のおやくめ……』
ふわりと緩んだ手のひらの奥から、ぽつりとつぶやく声が聞こえた。
『よいか、兵馬。これよりそちが家中などで見聞きした話の種を、だれにも知られることなく密かにこの伯父に話すのが……そちに与えられた御役目にてござるぞ』
生まれて初めて賜る「御役目」である。兵馬のぷっくりとした両頬にさっと赤みが差し、つぶらな瞳がみるみるうちに爛々と輝きだす。
同時に、ぶるぶるぶる…と文字どおり「武者震い」が来た。
『ぎょ…ぎょい』
兵馬は、厳かにその任を承った。
゜゚・*:.。. .。.:*・゜゚・*:.。. .。.:*・゜゚
あの頃より幾年月——今の兵馬は妻女を娶るほどの歳となった。
「そうじゃ、兵馬。先頃、嫁御を娶ったそうではないか」
公方様が愛息を亡くされた忌引の折、親類縁者が立ち会うことなく祝言を挙げていたが、流石に帯刀の許には報せがあった。
されども、妹の嫁ぎ先である松波家を慮って、帯刀は妻をはじめとする家内の者にはそのことを伏せていた。
「しからば、勿体ぶらずにわしにさっさと『話の種』を告げて、おまえの帰りを待つ嫁御に早うその面を見せてやれ」
帯刀はさように云いながら、手にした筆の穂先を硯の墨にたっぷりと浸した。
「その前に某、伯父上に是っ非ともお願いしとうござることが……」
「起っきゃがれ、兵馬っ。なんだってんだ、この野郎っ」
武家言葉だった帯刀の口調が、がらりと変わった。のらりくらりとした兵馬に、とうとう痺れを切らしたのだ。
「こちとら、先刻から勿体つけずにとっとと云えっつってんじゃねえかっ」
実は、町家の者を相手とせねばならぬ「町方役人」は、かような伝法な物云いの方が常であった。
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幼き頃、あないに母親に似た穢れなき澄み切った笑顔を見せていたはずなのに……長じて御公儀から「本当」の御役目を承った今、いつの間にか父親に瓜二つのそれになっていた。
「だったら……悪ぃがよ」
兵馬の口調も伝法になった。
「松波の家にゃあ内緒で……おれをしばらく、この佐久間ん家に置いてくんねぇか」
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本作は歴史の検証を目的としたものではなく、脚色されたフィクションです。
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