107 / 129
大詰
口上〈伍〉
しおりを挟む兵馬は開けられた裏口から竈のある土間へ、すっと身を滑り込ませた。
急いで奥へと引き返して行ったおきくを待っていると、しばらくして派手さはないが上質そうな着物を纏った女が出てきた。
「……兵馬殿、如何なされた」
此の屋敷の主人の奥方である芙美だった。兵馬の母の志鶴とほぼ同じ歳頃のおなごである。
「伯母上、先触れもなく御無礼仕ってごさる」
兵馬は頭を下げ、非礼を詫びた。
「面を上げられよ。此処はそなたの家も同然、遠慮は無用にてござりまする」
武家の妻である芙美は、火急のことかと察してすんなりと応じた。
そして、兵馬を主人のいる奥の間に案内するよう、おきくに命じた。
゜゚・*:.。. .。.:*・゜゚・*:.。. .。.:*・゜゚
当家の家人が使う部屋では間違いなく一番立派な座敷に、兵馬は通された。
「おう、兵馬か」
床の間を背に、文机の前に座していた当主が顔を上げた。
母・志鶴の兄、佐久間 帯刀であった。
されども、甥の返事もろくに聞くことなく、すぐに其の目を落とす。
先程から、白紙の巻物を左手に、右手ではすらすらと筆を走らせていた。
「伯父上……本日は一段と筆が進んでござるか」
兵馬に声をかけられて、帯刀は再び目を上げた。
「此度もまた、巷での話の種を持ってきておるのか」
兵馬の父・松波 多聞が南町奉行所の筆頭与力なのに対し、北町奉行所では佐久間 帯刀が其の任に就いていた。
松波家同様、佐久間家が代々御公儀より賜ってきた御役目である。
実は帯刀は、さような「一足目の草鞋」とは別に「戯作者」と云う「二足目の草鞋」も履いていた。
この頃、木版印刷の向上によって、浮世絵以外にも「黄表紙」と云う変体仮名でものされた挿絵付きの戯作本が、廉価で世間に出回っていた。
変体仮名の識字率がほぼ十割と云われた江戸の庶民に、かような黄表紙は安価なのも手伝って売れに売れた。
すると、戯作者を目指す者が一気に増えて、中には御公儀に仕える旗本・御家人や諸藩に仕える藩士の身でありながら、趣味や実益を兼ねて戯作者になる者まで現れた。
実際のところ、「南総里見八犬伝」の滝沢(曲亭)馬琴、「金々先生栄花夢」の恋川春町、「半日閑話」の太田南畝などが、本来の御役目を隠して密かに筆を執っていた。
帯刀もそのうちの一人であった。
代表作「八丁堀浮世募恋鞘当」は、江戸に生きる与力、武家の娘、同心、吉原の遊女——四人の男女たちが切なく絡み合う恋模様が綴られており、戯作だけにとどまらず歌舞伎の演目にもなり、凄まじいまでの人気を博した。
「版元からは先頃の『傾城振袖絞戀涙』の売れ行きも悪うはないが、もっと町家の者たちの目を引く話の種はないか、と催促されておってな」
「……しからば、先達て某の耳に入った、とある話がござらぬでもないが」
「兵馬、本当か」
帯刀が身を乗り出した。
「されども、そのまま伯父上のお耳に入れるには、ちと仔細がござってな……」
兵馬が腕を組んで考え込む。
「おい、勿体つけずに早う云え」
思わず、帯刀は声を荒げた。
そもそも、甥であるこの兵馬に、戯作者と云う「二足目の草鞋」を気づかれたのは、帯刀にとって一生の不覚であった。
それは、妹である兵馬の母・志鶴が二人目の子を胎に宿し、この佐久間家に里帰りしていた折に起こった。
0
お気に入りに追加
75
あなたにおすすめの小説
【完結】女神は推考する
仲 奈華 (nakanaka)
歴史・時代
父や夫、兄弟を相次いで失った太后は途方にくれた。
直系の男子が相次いて死亡し、残っているのは幼い皇子か血筋が遠いものしかいない。
強欲な叔父から持ち掛けられたのは、女である私が即位するというものだった。
まだ幼い息子を想い決心する。子孫の為、夫の為、家の為私の役目を果たさなければならない。
今までは子供を産む事が役割だった。だけど、これからは亡き夫に変わり、残された私が守る必要がある。
これは、大王となる私の守る為の物語。
額田部姫(ヌカタベヒメ)
主人公。母が蘇我一族。皇女。
穴穂部皇子(アナホベノミコ)
主人公の従弟。
他田皇子(オサダノオオジ)
皇太子。主人公より16歳年上。後の大王。
広姫(ヒロヒメ)
他田皇子の正妻。他田皇子との間に3人の子供がいる。
彦人皇子(ヒコヒトノミコ)
他田大王と広姫の嫡子。
大兄皇子(オオエノミコ)
主人公の同母兄。
厩戸皇子(ウマヤドノミコ)
大兄皇子の嫡子。主人公の甥。
※飛鳥時代、推古天皇が主人公の小説です。
※歴史的に年齢が分かっていない人物については、推定年齢を記載しています。※異母兄弟についての明記をさけ、母方の親類表記にしています。
※名前については、できるだけ本名を記載するようにしています。(馴染みが無い呼び方かもしれません。)
※史実や事実と異なる表現があります。
※主人公が大王になった後の話を、第2部として追加する可能性があります。その時は完結→連載へ設定変更いたします。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
鎌倉最後の日
もず りょう
歴史・時代
かつて源頼朝や北条政子・義時らが多くの血を流して築き上げた武家政権・鎌倉幕府。承久の乱や元寇など幾多の困難を乗り越えてきた幕府も、悪名高き執権北条高時の治政下で頽廃を極めていた。京では後醍醐天皇による倒幕計画が持ち上がり、世に動乱の兆しが見え始める中にあって、北条一門の武将金澤貞将は危機感を募らせていく。ふとしたきっかけで交流を深めることとなった御家人新田義貞らは、貞将にならば鎌倉の未来を託すことができると彼に「決断」を迫るが――。鎌倉幕府の最後を華々しく彩った若き名将の清冽な生きざまを活写する歴史小説、ここに開幕!
四代目 豊臣秀勝
克全
歴史・時代
アルファポリス第5回歴史時代小説大賞参加作です。
読者賞を狙っていますので、アルファポリスで投票とお気に入り登録してくださると助かります。
史実で三木城合戦前後で夭折した木下与一郎が生き延びた。
秀吉の最年長の甥であり、秀長の嫡男・与一郎が生き延びた豊臣家が辿る歴史はどう言うモノになるのか。
小牧長久手で秀吉は勝てるのか?
朝日姫は徳川家康の嫁ぐのか?
朝鮮征伐は行われるのか?
秀頼は生まれるのか。
秀次が後継者に指名され切腹させられるのか?
織田信長IF… 天下統一再び!!
華瑠羅
歴史・時代
日本の歴史上最も有名な『本能寺の変』の当日から物語は足早に流れて行く展開です。
この作品は「もし」という概念で物語が進行していきます。
主人公【織田信長】が死んで、若返って蘇り再び活躍するという作品です。
※この物語はフィクションです。

葉桜よ、もう一度 【完結】
五月雨輝
歴史・時代
【第9回歴史・時代小説大賞特別賞受賞作】北の小藩の青年藩士、黒須新九郎は、女中のりよに密かに心を惹かれながら、真面目に職務をこなす日々を送っていた。だが、ある日突然、新九郎は藩の産物を横領して抜け売りしたとの無実の嫌疑をかけられ、切腹寸前にまで追い込まれてしまう。新九郎は自らの嫌疑を晴らすべく奔走するが、それは藩を大きく揺るがす巨大な陰謀と哀しい恋の始まりであった。
謀略と裏切り、友情と恋情が交錯し、武士の道と人の想いの狭間で新九郎は疾走する。
裏長屋の若殿、限られた自由を満喫する
克全
歴史・時代
貧乏人が肩を寄せ合って暮らす聖天長屋に徳田新之丞と名乗る人品卑しからぬ若侍がいた。月のうち数日しか長屋にいないのだが、いる時には自ら竈で米を炊き七輪で魚を焼く小まめな男だった。

いや、婿を選べって言われても。むしろ俺が立候補したいんだが。
SHO
歴史・時代
時は戦国末期。小田原北条氏が豊臣秀吉に敗れ、新たに徳川家康が関八州へ国替えとなった頃のお話。
伊豆国の離れ小島に、弥五郎という一人の身寄りのない少年がおりました。その少年は名刀ばかりを打つ事で有名な刀匠に拾われ、弟子として厳しく、それは厳しく、途轍もなく厳しく育てられました。
そんな少年も齢十五になりまして、師匠より独立するよう言い渡され、島を追い出されてしまいます。
さて、この先の少年の運命やいかに?
剣術、そして恋が融合した痛快エンタメ時代劇、今開幕にございます!
*この作品に出てくる人物は、一部実在した人物やエピソードをモチーフにしていますが、モチーフにしているだけで史実とは異なります。空想時代活劇ですから!
*この作品はノベルアップ+様に掲載中の、「いや、婿を選定しろって言われても。だが断る!」を改題、改稿を経たものです。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる