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大詰
口上〈肆〉
しおりを挟むやがて朝になり、兵馬は参ってきたいつもの髪結いの男に本多髷を整えてもらうと、家人の者たちに顔を合わせることなく、早々と出仕した。
向かった先は、御役目を解かれて以来久方ぶりの「吉原」であった。
隅田川を経て山谷堀を通ってきた猪牙舟から、兵馬はひらり、と見返り柳の岸辺に降り立った。
姿勢を正して大小の刀をしっかりと手挟むと、お歯黒どぶの流れる跳ね橋を渡り、吉原唯一の出入り口・大門を潜り抜ける。
そして、左手に見える御公儀が陣取る面番所の前に立ち、勝手知ったる様にて油障子をがらり、と開けた。
「……あれっ、松波の若さまでやんすか。吉原での御用は終わって、娑婆に戻りなすったんでねぇんすかい。一体どうなすったんでぇ」
くたくたに着古した木綿の着物を尻っ端折りに絡げた岡っ引き・伊作が、糸のように細いはずの目を押し広げて尋ねてきた。
「おめぇさんらも暇じゃねえとは思うがよ。ちょいと、頼まれてほしいことがあるのよ」
町家の者相手には、砕けた物云いにした方が話が早い。
「へぇ、若さまがあっしらみてぇなもんに頼み事たぁ、珍しいこともあるもんで」
兵馬に供する茶を支度をしながら、下っ引きの与太が口を挟んだ。
「るっせぇ、おめぇは若さまにとっとと茶を淹れな」
そろそろ初老に差しかかった伊作が、手下として使っている二十歳そこそこの与太を叱り飛ばす。
「……で、あっしらは、なにをすりゃいいんでぇ」
「久喜萬字屋にいる『舞ひつる』っ云う振袖新造のことを……大急ぎで調べてくれ」
゜゚・*:.。. .。.:*・゜゚・*:.。. .。.:*・゜゚
その日の夕刻、御役目を終えいつもなら南町の組屋敷へと家路を急ぐ兵馬の足は、とある処へ向かっていた。
其処へは先触れの使いの者すら送っていなかったゆえ、たどり着いても堂々と正門から入って行くわけにはいかず、人目を避けつつ裏門に回る。
裏口にある引き戸に手を掛け、兵馬がいざ開けようとしたそのとき……がらり、と戸が開いて、中から女が出てきた。
「あんれまぁ……松波様んとこの若さまじゃねぇでさ」
のっぺりとした目鼻立ちをした中年の女が、一重の目をめいっぱい押し広げて驚く。
「なして、こんな裏口からこそこそと入って来なさるんでぇ」
通いの女中をしているおきくと云うおなごで、ちょうど家に帰る処であった。
「ちょいと、仔細があってよ。……悪りぃがおれがこの家に来たってこった、なるべく他の者には知られとうねぇのよ」
おきくは子を産んだあとに当家に奉公し始めたのだが、そもそも嫁入り前までは松波の御家にいた女中だった。
兵馬がまだ月代も剃らぬ前髪の子ども時分のことだ。
「伯父上は御出仕を終えて、もう帰っていなさるかい」
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