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九段目
黒塀の場〈参〉
しおりを挟むとりあえず、美鶴は座敷へと広次郎を招じ入れた。
ところが、おさとがまだ帰ってきてはおらぬゆえ、湯を沸かすことのできぬ美鶴では茶の一つも出せない。
座敷に入った広次郎は、当然のごとく下座に腰を下ろした。そして、腰に手挟んでいた大小の刀を左側に、抱えていた巾着を正面に置く。
仕方なく、美鶴はとまどいながらも上座に座した。
「……松波様の大奥様より、託されたものでござる」
広次郎はさように告げると、ずしりと重そうな巾着を、すーっと美鶴の前に差し出した。
——姑上様が、いったい何を……
美鶴は訝しげに思いつつも、巾着を手に取ると紐を解いた。
その刹那、棗のように大きな目がさらに大きく見開かれた。
「こ、これは……」
巾着の中には、小分けされた三つの袋があった。一つを開くと二分金を頭に一分金・二分銀・一分銀が見えた。二つめの袋には二朱金・一朱金・二朱銀・一朱銀があった。
——吉原を出るときに久喜萬字屋のお内儀さんが持たせてくれた金子ではないか……
その後、島村の家に着いたとたん、右も左もわからぬまま、当主の妻である多喜が預かると云うので、差し出さざるを得なかったのだ。
三つめの袋には、日々の暮らしの中で使い勝手の良い一文銭・四文銭などの銭がびっしりと詰められていた。
美鶴が唯一手許に置くのを許されていた袋であった。
「これらはそなたの嫁入りの際に、『持参金』として松波様の御家に献上されたものでござる」
美鶴はまじまじと巾着の中の大金を見つめた。
「その際は、義父の勘解由の命により、某が松波様の御家へ持参したのでござるが……」
「さ…さようでござりまするか……」
「まさか、再びそなたの許へ戻ってこようとは……」
そのとき、広次郎の切れ長の澄みきった目が、美鶴をまっすぐに射抜いた。
「……美鶴殿」
広次郎は「奥方様」とは呼ばなかった。
「これが……如何なることか、お判りか」
美鶴はハッとした。
「……わたくしは……松波の御家から……」
持参金が、姑から我が身の手許に戻ってきたと云うことは——
「離縁される、と云うことでござりましょうか」
無理もない、と美鶴はうつむいた。あのように突然、御家を出たのだ。
——きっと、姑上様は……お怒りになっておられるのであろう。
「美鶴殿……」
もう一度名前を呼ばれて、面を上げる。
広次郎の切れ長の目に、今までに感じたことのない熱が篭っていた。
「……三年、待ってはくださらぬか」
「そなたが離縁して、松波の御家を出られたとしても、すぐさま再嫁は難しゅうこざる」
さようなことがあらば、世間からは美鶴と広次郎に「不義密通」の疑いが掛けられるであろう。
「されども……三年経てば……」
恐らく、世間の目も緩むに違いない。むしろ「武家の女」としては、一刻も早く再び嫁いで、今度こそは婚家のために身を粉にして尽くさねばならぬ。
そして、再び嫁する際には、ますます如何なる御家であろうと抗うことはできぬ。
おそらく、うんと歳の離れた御仁の後妻が関の山だ。
もしくは、与力のような立派な士分の御家ではなく——
「今度こそ、そなたを……某の妻に迎えることができる」
——わたくしが……広次郎さまの妻に……
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