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九段目
黒塀の場〈壱〉
しおりを挟む三百坪をゆうに超える松波の広大な家御屋敷と較べると、その仕舞屋は奉公人の中間たちが常駐する長屋門ほどの手狭さであった。
町家の外れと思われる其処は、辺りに騒がしい長屋もなく、侘しいまでにひっそり閑としていた。
しかもその周囲は、真っ黒な渋墨が塗られた杉板にびっちりと覆われた「黒塀」で、外から中を覗き見ることはいっさいできなかった。
まるで、町家の旦那衆が入れ上げた色里の妓を落籍かせたあと、家人に知られぬようひっそりと囲ってやっている、妾宅のようであった。
「だれにも告げず、こないな処に参って……松波の御家が……姑上様が……わたくしを如何ほど御心配なさるか……」
美鶴はおさとに介添えされながら、よろよろと家の内に入っていく。
その顔は、すっかり青褪めていた。
「御新造さん、心配は無用でさ」
おさとは何故か、余裕綽々で応じた。
「先刻弥吉さんに会うたときに、御新造さんが久方ぶりに御実家にお戻りんなって『里心』がついちまったから、奥様やおせいさんにはしばらく松波様の御家にゃ帰れねぇって云っといとくれ、って言付けてきたでやんす」
——ま、まさか……さような……
美鶴は絶句して、二の句を継げなかった。
「御新造さん……実は、あたい……御輿入れなすった松波様の御家で……もし、どうしても辛抱たまらんことがありなさったなら……」」
おさとは、急に神妙な面持ちとなった。
「御新造さんを……この家に連れてくるようにって……島村の旦那様から……云われてたんでさ」
——し、島村さまは……わたくしのために、おさとを……松波の御家に寄越してくれたと云うのか……
゜゚・*:.。. .。.:*・゜゚・*:.。. .。.:*・゜゚
玄関の上がり框に、おさとは美鶴を腰掛けさせた。
そして、美鶴を残して急いで裏手に回り、竈のある土間まで行くと、水を張った盥を抱えて戻ってきた。
「ちょいと御御足を失礼しやすよ」
おさとは土間に両膝をつき、美鶴の裾除けの奥にある足から草履と足袋を脱がせた。抜けるように白い小さな素足が目の前に顕れる。
外を歩くと、いくら足袋を履いていたとしても往来の土や砂でどうしても足が汚れる。雨の日などは、なおさらだ。もしそのままの足で座敷に上ろうものならば、たちまちのうちに畳の間が砂まみれとなってしまう。
外から帰ってきた主人の足を洗うのは、奉公人の役目だった。
「御新造さん……」
盥の水で手拭いを濡らして固く絞ると、おさとは美鶴の足を清め始めた。
「島村ん御家に奉公に上がってたときも、そりゃあひでぇ扱いだって思いやしたがねぇ」
美鶴が、きょとん、とした顔でおさとを見下ろす。
「そいでもまぁ、あたいと縫い物をしてるときはさ、御新造さんも時折、ふっ、と笑ってらしたがよ」
おさともまた、ふっ、と笑った。だが、片方の口の端をほんの少し上げただけの、なんとも皮肉めいた笑みであった。
「御新造さん、ご自分で気がついていなさったかい」
おさとが美鶴を見上げる。
「松波の御家では、まーったくと云っていいほど……笑っておりなさらねぇってことをさ」
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