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九段目
離礁の場〈伍〉
しおりを挟む「……松波様の奥方様」
広次郎はもう一度、告げた。
「ひ、広……」
と返しかけて、美鶴が云い澱む。
枇杷茶色の小袖に白茶の打掛を纏う今の我が身は、眉を剃り落としお歯黒をつけ、丸髷に結った髪になっている。
この家で過ごしていたときの「娘」ではなく、歴とした「人妻」の形であった。
さらには、南町奉行所与力・松波 兵馬の妻となった我が身が、北町奉行所の男の「名」を気安う呼ぶわけにはいくまい。
あの頃のように、二人きりでこの場にいるわけでもなかった。
中庭に面した縁側ではおさとが正座し、縁側を下りてすぐの処では弥吉が片膝をついて控えている。
おさとはともかく、弥吉の口から松波の家に如何伝わるかしれぬ。
「上條さま……」
美鶴は広次郎を氏で呼んだ。
「もう、上條ではござらぬ。……島村だ」
広次郎は首を左右に振った。
「先般、北町奉行所隠密廻り同心・島村 勘解由の嗣子として無事当家と縁組相成り、今は御公儀より見習い同心の御役目を戴く身にてござる」
そして、さように口上を述べると、座敷に立ち入ることなく、縁側の板床に腰を下ろした。
「ゆえに某の名は……島村 広次郎にてござる」
「それは……御無礼仕ってござりまする」
美鶴は詫びたが、すんでのところで頭は下げずに済んだ。
「……島村殿」
さらに、目上や対等の者に対して使う「様」から、目下の者に使う「殿」に改める。
「此度は誠に御目出度きことにて、御慶び申し上げまする。さすれば此れよりは、養家・島村家のため……そなたを嗣子として迎えられた恩義ある御家のため、なお一層ご精進なされませ」
「上條」広次郎は、松波家と同じ与力の御家の者であった。
されども、「島村」広次郎となり、同心の御役目に就いた今……
二人の間には、身分の壁が聳え立っていた。
「はっ」
縁側に座す広次郎が、頭を下げた。
与力の奥方となった美鶴は、同心である広次郎を無闇矢鱈に座敷の中へ招じ入れることもできなくなっていた。
——つい先達てまでは……このお方と、夫婦になるものとばかり思うておったものを……
広次郎が床板から、すっ、と立ち上がった。
「御役目の最中に通りかかって参ったゆえ、此れにて御免仕ってござる」
御納戸色の着物の上に裾を捲って角帯に手挟んだ紋付の黒羽織、裏白の紺足袋に雪駄履き。
そして腰には二本、水平に差された大小の刀。
すっかり「同心」の形になった「島村 広次郎」が其処にいた。
美鶴は改めて、その姿を見つめた。
広次郎の切れ長の目が降りてきて、美鶴の棗のごとき大きな瞳と出合う。
澄み切った切れ長の目が、美鶴を真っ直ぐに射抜く。
二人の視線が出合った。
不意に、心に染み入るやさしい声で、広次郎は美鶴に尋ねた。
「…… 辛うはござらんか」
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