大江戸シンデレラ

佐倉 蘭

文字の大きさ
上 下
93 / 129
九段目

離礁の場〈伍〉

しおりを挟む

「……松波様の奥方様」
   広次郎はもう一度、告げた。

「ひ、広……」
と返しかけて、美鶴が云いよどむ。

    枇杷びわ茶色の小袖に白茶の打掛をまとう今の我が身は、眉を剃り落としお歯黒をつけ、丸まげに結った髪になっている。
   この家で過ごしていたときの「娘」ではなく、れっきとした「人妻」のなりであった。

   さらには、南町奉行所与力・松波 兵馬の妻となった我が身が、北町奉行所の男の「名」を気安う呼ぶわけにはいくまい。

   あの頃のように、二人きりでこの場にいるわけでもなかった。

   中庭に面した縁側ではおさと・・・が正座し、縁側を下りてすぐのところでは弥吉が片膝をついて控えている。
   おさとはともかく、弥吉の口から松波の家に如何どう伝わるかしれぬ。

「上條さま……」
   美鶴は広次郎をうじで呼んだ。

「もう、上條ではござらぬ。……島村だ」

   広次郎は首を左右に振った。

「先般、北町奉行所隠密廻り同心・島村 勘解由かげゆ嗣子ししとして無事当家と縁組相成あいなり、今は御公儀より見習い同心の御役目を戴く身にてござる」

   そして、さように口上を述べると、座敷に立ち入ることなく、縁側の板床に腰を下ろした。

「ゆえにそれがしの名は……島村 広次郎にてござる」

「それは……御無礼つかまつってござりまする」

   美鶴は詫びたが、すんでのところでかしらは下げずに済んだ。

「……島村殿」

   さらに、目上や対等の者に対して使う「様」から、目下の者に使う「殿」に改める。

此度こたびは誠に御目出度おめでたきことにて、御慶び申し上げまする。さすればれよりは、養家・島村家のため……そなたを嗣子として迎えられた恩義ある御家おいえのため、なお一層ご精進なされませ」

   「上條」広次郎は、松波家と同じ与力の御家の者であった。
   されども、「島村」広次郎となり、同心の御役目にいた今……

   二人の間には、身分の壁がそびえ立っていた。

「はっ」
   縁側に座す広次郎が、頭を下げた。

   与力の奥方となった美鶴は、同心である広次郎を無闇矢鱈に座敷の中へ招じ入れることもできなくなっていた。

——つい先達せんだってまでは……このお方と、夫婦めおとになるものとばかり思うておったものを……


   広次郎が床板から、すっ、と立ち上がった。

「御役目の最中さなかに通りかかって参ったゆえ、れにて御免つかまつってござる」

   御納戸おなんど色の着物の上に裾をまくって角帯に手挟たばさんだ紋付の黒羽織、裏白の紺足袋たび雪駄せった履き。
   そして腰には二本、水平に差された大小の刀。

   すっかり「同心」のなりになった「島村 広次郎」が其処そこにいた。

   美鶴は改めて、その姿を見つめた。

   広次郎の切れ長の目が降りてきて、美鶴のなつめのごとき大きな瞳と出合う。
   澄み切った切れ長の目が、美鶴を真っ直ぐに射抜く。

   二人の視線が出合った。

   不意に、心に染み入るやさしい声で、広次郎は美鶴に尋ねた。


「…… つろうはござらんか」

しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

校長室のソファの染みを知っていますか?

フルーツパフェ
大衆娯楽
校長室ならば必ず置かれている黒いソファ。 しかしそれが何のために置かれているのか、考えたことはあるだろうか。 座面にこびりついた幾つもの染みが、その真実を物語る

夫の色のドレスを着るのをやめた結果、夫が我慢をやめてしまいました

氷雨そら
恋愛
夫の色のドレスは私には似合わない。 ある夜会、夫と一緒にいたのは夫の愛人だという噂が流れている令嬢だった。彼女は夫の瞳の色のドレスを私とは違い完璧に着こなしていた。噂が事実なのだと確信した私は、もう夫の色のドレスは着ないことに決めた。 小説家になろう様にも掲載中です

和ませ屋仇討ち始末

志波 連
歴史・時代
山名藩家老家次男の三沢新之助が学問所から戻ると、屋敷が異様な雰囲気に包まれていた。 門の近くにいた新之助をいち早く見つけ出した安藤久秀に手を引かれ、納戸の裏を通り台所から屋内へ入っる。 久秀に手を引かれ庭の見える納戸に入った新之助の目に飛び込んだのは、今まさに切腹しようとしている父長政の姿だった。 父が正座している筵の横には変わり果てた長兄の姿がある。 「目に焼き付けてください」 久秀の声に頷いた新之助だったが、介錯の刀が振り下ろされると同時に気を失ってしまった。 新之助が意識を取り戻したのは、城下から二番目の宿場町にある旅籠だった。 「江戸に向かいます」 同行するのは三沢家剣術指南役だった安藤久秀と、新之助付き侍女咲良のみ。 父と兄の死の真相を探り、その無念を晴らす旅が始まった。 他サイトでも掲載しています 表紙は写真ACより引用しています R15は保険です

妻がヌードモデルになる日

矢木羽研
大衆娯楽
男性画家のヌードモデルになりたい。妻にそう切り出された夫の動揺と受容を書いてみました。

大江戸ロミオ&ジュリエット

佐倉 蘭
歴史・時代
★第2回ベリーズカフェ恋愛ファンタジー小説大賞 最終選考作品★ 公方(将軍)様のお膝元、江戸の町を守るのは犬猿の仲の「北町奉行所」と「南町奉行所」。 関係改善のため北町奉行所の「北町小町」志鶴と南町奉行所の「浮世絵与力」松波 多聞の縁組が御奉行様より命じられる。 だが、志鶴は父から「三年、辛抱せよ」と言われ、出戻れば胸に秘めた身分違いの恋しい人と夫婦になれると思い、意に添わぬ祝言を挙げる決意をしたのだった……

小学生最後の夏休みに近所に住む2つ上のお姉さんとお風呂に入った話

矢木羽研
青春
「……もしよかったら先輩もご一緒に、どうですか?」 「あら、いいのかしら」 夕食を作りに来てくれた近所のお姉さんを冗談のつもりでお風呂に誘ったら……? 微笑ましくも甘酸っぱい、ひと夏の思い出。 ※性的なシーンはありませんが裸体描写があるのでR15にしています。 ※小説家になろうでも同内容で投稿しています。 ※2022年8月の「第5回ほっこり・じんわり大賞」にエントリーしていました。

紀伊国屋文左衛門の白い玉

家紋武範
歴史・時代
 紀州に文吉という少年がいた。彼は拾われっ子で、農家の下男だった。死ぬまで農家のどれいとなる運命の子だ。  そんな文吉は近所にすむ、同じく下女の“みつ”に恋をした。二人は将来を誓い合い、金を得て農地を買って共に暮らすことを約束した。それを糧に生きたのだ。  しかし“みつ”は人買いに買われていった。将来は遊女になるのであろう。文吉はそれを悔しがって見つめることしか出来ない。  金さえあれば──。それが文吉を突き動かす。  下男を辞め、醤油問屋に奉公に出て使いに出される。その帰り、稲荷神社のお社で休憩していると不思議な白い玉に“出会った”。  超貧乏奴隷が日本一の大金持ちになる成り上がりストーリー!!

ママと中学生の僕

キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。

処理中です...