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九段目
離礁の場〈肆〉
しおりを挟む島村の御家に着くと、美鶴は一番良い座敷に通された。しかも、床の間を背にした上座に促される。
すぐさま女中に茶を供されたが、一口飲んでかなり上物の味だったため驚いた。この家にいた頃には、とても考えられぬ扱いである。
「……松波様の奥方様、申し訳ありゃあせんが、当家の旦那様は御役目で今おりゃあせんし、御新造さんは旦那様のお云い付けで奥方様の前にゃあ出らんねぇことになっておりやして」
給仕した女中が、おどおどしながら美鶴に告げる。
「気にせずともよい。当方こそ、前触れもなくいきなり参ってかたじけない。本日参ったのは、此方で使うておった針箱を譲り受けたいのじゃ。使い慣れた針の方が捗ると思うてな」
「さようでやんしたか。そいじゃあ、急いで持ってくるんでお待ちになっておくんなせぇ」
幾分、ほっとした顔になった女中は座敷から出ていった。
おさと以外の女中とは美鶴は馴染みがなかったが、向こうは美鶴が当家でつらい思いをしているにもかかわらず、なにもできなかったから負い目があるのであろう。
美鶴は、しばらく茶を飲んで刻を遣り過ごすこととした。
この家に連れてこられて過ごしたのは短い間であったが、隣家の刀根に武家ことばを学び、吉原の廓では人任せにしていた縫い物を始めた。
主人の妻である多喜からは日々のお菜が与えられず、かなりひもじい思いも味わったが、さりとてこの家での暮らしがなければ、今の松波家での「武家の嫁」としての我が身はない。
——あとで、お隣の刀根さまの御屋敷にも参り、非礼を詫びねばならぬ。
あれだけ世話になり恩義すら感じる刀根に対して、美鶴は礼どころか一言も告げることなく、忽然と姿を消したことになっていた。
——刀根さまはきっと、わたくしが広次郎さまの「嫁御」になるべく、お教えござっていたに違いないと云うに……
すると、縁側の方から人の気配がした。
先刻の女中が針箱を持ってきたのだと察した美鶴は、座敷の外を見た。
そのとき、声がした。
「……松波様の奥方様」
——その声は、もしや……
着流しに黒羽織の長身の男が、縁側に立っていた。
切れ長の目にスッと鼻筋が通っていて、ちょっと薄めの唇。頭は粋な本多髷。腰には長刀・短刀を二本差ししている。
美鶴はその武家の男を見つめた。
果たして、その男は——広次郎であった。
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