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九段目
離礁の場〈弐〉
しおりを挟むある日、おせいが畏まった顔で美鶴の部屋にやってきた。
「御新造さん、あたいが忙しゅうて、お世話するどころかろくに話もできんで……誠にすまんこってす」
おせいは薄い眉をハの字にして、心根から済まなさそうな声音で詫びる。
「そんで、奥様のお計らいで、御新造さんの身の回りの世話をする者を一人新たに雇い入れたんで……」
「さ、さようなことは無用でごさりまする。そもそも、わたくしは我が身のことは我が身にてできまするがゆえ」
美鶴はびっくりして、おせいの話を遮った。女中頭がそないに一人の者に構ってはおられぬのは、無理もないことだと心得ていた。
すると、そのとき……
「お嬢……いえ、御新造さん」
中庭に面した縁側に正座していたおせいの後ろで控えていたおなごが、ずいと膝を前に進める。
「……おさと……そなたは、おさとではござらぬか」
其処にいたのは、島村の家にいた時分に美鶴の世話をしてくれていた、おさとであった。
突然の祝言の日以来、ぱったりと姿を見ることができなくなっていた。
「どうかこの御家で、あたいに御新造さんのお世話をさしておくんなせぇ」
おさとは板敷の縁側の床に額が付くくらい、深々と頭を下げた。
「御新造さんは、そいでのうてもこの南町の組屋敷に馴染みがいなさらん上に、元は組屋敷すら縁のねえ、お大名の下屋敷のお育ちだ」
此度のことになった経緯を、おせいが語る。
「そんな御新造さんがちいっとでも心置きのう過ごすためにゃ、しばらく身を寄せなすった北町の島村様の処の者を、この松波の御家に招べばいいんじゃないか、と奥様がお取り計らいになったんでさ」
おそらく、兵馬のことで気苦労をかけていることへの罪滅ぼしもあるのかもしれない。
——さすれども……
以前、おせいが『やっぱり御新造さんは、若さまにはもったいねぇ。まるで、観音菩薩様のようなお方でさ』と云うたことがあったが……
——わたくしにとっては……姑上様こそが「観音菩薩様」であられまする。
美鶴は手を合わせて拝みたいくらい、ありがたかった。
「島村の旦那様より『おさと、松波様へはおまえが参れ』って命じられたときにゃ、あたい、お嬢……じゃなかった、御新造さんのお世話がまたできるんだと思って、そしたらうれしくって……」
おさとは涙ぐみ、ぐすっと洟をすすった。
「おさと、そなたが来てくれて、わたくしもうれしゅうござりまする。あ、早速で悪うござりまするが、此処の糸の始末が……」
美鶴は夫のために縫っている浴衣を引き寄せて、おさとに見せる。
おさとは縫い物の上手であった。それだけとってみても、来てくれて美鶴には如何ほど心強いか。
「そいじゃあ、あたいはこれで……」
二人の様子を見て安心したおせいが腰を上げた。
「おせい、姑上様には何卒、由無にお願い仕りまする。わたくしも、姑上様の御都合の良き折を見て、必ずや御礼に参上いたしまするがゆえ」
「御新造さん……」
おせいがまた、その薄い眉をハの字に下げる。
「あたいらのような下々の者に、そないな堅っ苦しい言葉違いは無用でさ」
確かに姑の志鶴は、武家の美鶴に対しての言葉遣いと町家の使用人に対しての言葉遣いは、きっちりと違えていた。
されども、ついこの間まで「廓言葉」であった美鶴である。まだとてもとても其処まではできなかった。
「……おせいさん、御新造さんは島村様の御家に来なさった時分は、国許のお故郷言葉の訛りが抜けねぇで、そうとう難儀しなすってたんだよ。どうか、勘弁したっておくんなせぇ」
おさとが助け舟を出してくれた。
「えっ、そうでやんすか。御新造さん、そいつぁ申し訳ねえ」
おせいが浮かした腰をまた下ろして、頭を下げようとする。
美鶴は「おせい、そなたの……」と云いかけて、
「おまえの申すことは、至極当然じゃ。頭を下げることはない。これからは……わらわも気をつけるとしよう」
なるだけ、志鶴の物云いを真似てみた。
まだまだ、学ぶべきことは山のごとくあった。
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