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八段目
岳父の場〈参〉
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『……父上』
兵馬は座敷に入ってきた多聞に、いきなりひれ伏した。
『なんでぇ、藪から棒によ。気色の悪りぃ』
多聞は訝しげに息子を見つつも、どかっと腰を下ろした。
『松波 兵馬、一世一代の頼みがあってござる』
兵馬はひれ伏したまま告げる。
『ある者を身請けして……我が妻にしとうござる』
『はぁ、「身請」だと……おめぇさん、まだ見習いのくせに、んな言葉どこで覚えてきゃぁがった。寝惚けてんじゃねぇのか』
多聞のきりりと形の良い眉の片方が、ぴくりと上がった。
『どこぞの女郎に閨で骨抜きにされ、うめぇこと寝物語されて強請られたか、兵馬』
ふんっ、と嘲るように嗤う。
『んなことのために、おりゃぁおめぇを吉原へ寄こしたんじゃねぇぜ』
そう云って、多聞は忌々しげに莨盆を手元に引き寄せた。煙管を取り上げ、一番上の抽斗から出した刻み莨を丸めて、雁首の火皿に置き、火入の炭火で焼べた。
そして、深く一服する。気を鎮めるためだった。
だが、どうやらうまく行きそうにない。肺の腑に含んだ煙は心のうちと同じで、いがいがするだけだ。
『父上、我が妻にしとうござるのは、決してさようなおなごではござらん。廓におるとは云え、まだだれの手も付いてはおらぬ浄らかな身のおなごにてござる』
兵馬は、がばっ、と身を起こした。
『歌舞音曲に明るいのは云うまでもなく、和漢にも秀でている上に、客人のあしらいまで長けておるおなごは、この組屋敷界隈にはおよそおりますまい。なによりも……世知辛い町家の浮世のさまを身をもって知ってござる』
父親譲りの眼光鋭き目で、滔々と告げる。
『さすれば必ずや……この松波家で……代々御公儀より「町与力」と云う町家の者を束ねる御役目を賜るこの松波家で……父上や母上のお導きの下、嫁として立派に勤めを果たしてくれることと存じまする』
『起っきゃがれっ、兵馬』
多聞は莨盆にある灰入の縁を、煙管で鋭く叩いた。カン、という響きとともに、役目を果たした刻み莨が、ぽとり、と灰入の中に落ちる。
『初めて惚れた女への熱に浮かされて、軽ぅく「身請」って云ってやがっけどよ。妓一人、落籍かせんのに、どんだけ金を積まねぇといけねぇのか、おめぇ知ってんのか』
多聞には今の兵馬の心のさまが、手に取るがごとくわかった。焦りに焦る心持ちはお見通しだ。男であれば一度は通る道である。
多聞もまた、若き頃に歩んだ道であった。
「身請」するためには、親元に支払った負い目(借金)の残り全額およびそれに掛かる金利に、妓の格とその見世での稼ぎ具合によって決まる「身代金」を上乗せして、しかも一括で払わねばならない。
おそらく、数百両は覚悟せねばならぬであろう。
『それに、かようなことが奉行所に知れてみろ。先祖代々の与力の御役目が召し上げられるやもしれんぞ。……兵馬、おめぇ、御先祖様に顔向けできるか』
兵馬は唇を、きつく噛んだ。もし、御役目を召し上げられたら、この屋敷どころか組屋敷にも住めぬかもしれない。家人を路頭に迷わすことになる。
また、松波と関わる御家にも何らかの障りがあるやもしれぬ。
兵馬一人の問題ではなかった。お武家の御家に、おいそれと廓の妓を嫁を迎えるわけにはいかないのだ。
『さりとてっ……父上っ』
なおも、 兵馬は喰い下った。
そのとき、多聞の声色ががらりと変わった。
『諦めろ。どう足掻いても果たせぬ望みだ』
屹然とした声が部屋に響く。有無も云わさぬ、一族郎党を預かる惣領の声だった。
『何故なら……おまえには、すでにもう決められた相手がおるからだ』
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