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八段目
丈毋の場〈壱〉
しおりを挟む刹那のうちに、真っ暗闇となった。
目を閉じると、長かった今日一日が甦ってくる。
突然、訳もわからず連れてこられたと思えば、膳どころか仲人も客もおらず、ましてや寿ぐ余興もない、まるで通夜のごとき「祝言」であった。
だが、それでも、こうして武家の娘となったからには……
『たとえ相手がだれであろうと、御家のための縁組こそ武家の大義』
と云う刀根の指南を信じ、美鶴は思い定めた。
にもかかわらず……
——なにゆえ、夫になるお方が若さまでのうて、広次郎さまだと偽りを聞かされたのか。
島村 勘解由だけではなく、広次郎自身からもそう聞いたのだ。
今までずっと、堪えに堪えて抑え込んできたやり切れなさが、ようやく美鶴にこみ上げてきた。
血の気が引いて青白くなったその頬に、つーっと涙が伝う。
——もし、初めから……夫になるお方が「若さま」だと知らされておれば……
広次郎さまに嫁ぐために……若さまの面影を振り切ることも……
ましてや、若さまとの初めての閨で……広次郎さまの名を申すことなぞ……
——ありはしなかったのに。
゜゚・*:.。. .。.:*・゜゚・*:.。. .。.:*・゜゚
翌る朝、突然枕元から声が掛かった。
「……御新造さん、おはようさんでやす」
忽ちのうちに、美鶴の目が覚めた。思わず、ばちり、と目が開く。 卯の方角に近いその部屋は、すでにさんさんと差し込む朝日で眩しいくらいであった。
「朝っぱらから叩き起こしちまって、勘弁してくだせぇ。……お身体は、如何でやんすか」
昨日の女中が、心配そうに美鶴の顔を覗き込んでいた。一重の細い目の、のっぺりとした目鼻立ちをした中年の女だ。
「身体は造作ないゆえ……」
身体は疲れからか、なんだかだるくて仕方がなかったが、昨夜のずくずくした胎内の痛みは治まり、今はひりひりするくらいになっていた。
美鶴は夜着から身を起こした。すぐに、おせいが背を支えてくれる。
「そりゃあ、良うござんした」
女は、ほっとした顔を見せた。
「御新造さん、あたいはおせいと云いやして、女中頭をしておりやす。この松波の御家には、奥様がお嫁入りなさる前から奉公していやすんでさ」
さように女が名乗ったため、
「わたくしは美鶴と申しまする。おせい、此れよりよろしゅう頼みまする」
美鶴も名乗りを上げる。
身分が上の武家が、下である町家の者より先に名乗るのは御法度だった。むしろ、名乗らなくてもいいくらいだ。
もちろん、刀根の「教え」である。
「御新造さんのこったぁ、奥様からよっく仰せつかっとりやすんで、このあたいになんなりと申し付けてくだせぇ」
おせいはさように云うが、島村の家にいた歳の近いおさととは立場が違う。
薹の立つおせいは美鶴の身の廻りのことだけではなく、松波家に慣れるための「目付役」も任されていると思われた。
「そいじゃあ、奥様が御新造さんをお呼びなすっていなさるから、身支度をお手伝いしやす」
美鶴は鶯茶色の小袖を着付けたあと、その上に紅鼠色の打掛を羽織った。
丸髷に結った髪に、剃り落とした眉、お歯黒をつけたその姿は、何処を如何見ても「お武家の御新造さん」だ。
つい先達てまで、吉原の廓で「振袖新造」だったおなごであったなぞ、だれが信じられようか。
おせいの先導によって、午の方角にある座敷の前まで来た。おせいがすっ、と下がる。
美鶴は明障子の前で正座した。
「……美鶴にてござりまする」
声が震えぬよう、腹に力を入れて申す。
「お入りなされ」
中から声がした。女人のものだった。
美鶴は一度息を吸って、背筋を伸ばしてから、明障子をすーっと開けた。
「御姑上様……お初にお目にかかりまする。美鶴にてござりまする」
美鶴は深々と平伏する。
「御無礼仕りまする」
そして、座敷の中へと入った。
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