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七段目
往古の場〈肆〉
しおりを挟むゆえに、見世から胡蝶が外へ出るのを唯一赦されている「明石稲荷詣で」に託つけて、二人は逢引きしていた。
胡蝶が御堂の裏から入ったのを見計らって、あとから尚之介が入り込む。
待ちに待った尚之介を見ると、
「あぁ……尚之介さま……」
胡蝶は泣き笑いのような顔して、その胸に飛び込んだ。
「……お逢いしとうなんした……」
すると、尚之介もまた抑えきれぬ想いが込み上げてきて、
「おてふ……」
とつぶやき、胡蝶をかき抱く。
「おてふ」とは胡蝶の父親が名付けたという真名であった。
だが、二人とも人目につく麗しき見目かたちである。こうして忍んで逢っている姿が、いつだれの目に止まるとも限らない。
しかしながら……
そうは云うたとて、ひとたび顔を見て肌を合わせてしまえば、なかなか断ち切ることができぬのが「戀」というものである。
その日も尚之介に抱かれ、胡蝶は自ら望んでこの身を任せられる喜びに浸る。
十五で見世に出されて以来、月の障りのほかは毎夜だれかと同衾してきた胡蝶にとって、初めての想いであった。
「……尚さま……お慕いしておりなんし……わっちを……決して離さでおくんなんし……」
おてふは「吉原で百年に一人」と云われた「呼出」である母親からはその類い稀なる美貌を、勉学に秀でた「旗本」の父親からはその学才を、見事に受け継いでいた。
廓で生まれたおなごは同じ吉原の中にある「子ども屋」に預けられるのだが、母親に会えるのは客を取っていない昼間だけである。
だが、おてふの母・胡蝶は、娘が生まれてすぐに産後の肥立ち悪しくこの世を去っていた。
されども、おてふにはやるべきことが山ほどあった。
行く末には母と同じ呼出になれるよう、物心ついた頃より、歌舞音曲に和漢の書に手習いにと求められ、休む間もなく厳しく躾けられたからだ。
ゆえに、十歳になって久喜萬字屋に戻されたおてふは、まるで見世の主人とお内儀の実の娘のように扱われ、禿として客前に出されることなく大切にされていた。
これを「引っ込み禿」といい、振袖新造よりもさらに格上であった。
そして、おてふが母の名を受け継いで「胡蝶」となり初めて客を取った「突き出し」の際には、いきなり昼三として見世に出た。
祝儀の分も含めて大枚叩いて不老不死の「縁起物」である「初物」を散らせたのは、さる藩の大名であった。
その後、胡蝶は瞬く間に母をも凌ぐ吉原きっての呼出(花魁)になったのだった。
「……しからば、刻が参ったゆえ」
身を起こした尚之介が、御納戸色の着物の前を整え、紋付きの黒羽織を羽織る。
束の間の逢瀬は、終わった。
御役目に戻るべく去っていく尚之介の背に……
——尚さま、どうかご無事に御役目を果たしておくんなんし。
今日もまた、胡蝶はきちっと居住まいを正し、手を合わせて見送る。
隠密廻り同心である尚之介は、その御役目ゆえにいつも危険がつきまとった。
「『風吹けば 沖つしら浪 たつた山 よはにや君が ひとりこゆらむ』」
〈風が吹けば沖で白波が立つという竜田山を、あなたはこの夜半に一人越えているのであろうか〉
胡蝶は、平安の時世に書かれた伊勢物語のうちの二十三段にものされた和歌を口ずさんだ。
夜半に峠越えをする夫を心配する妻の歌であるが、その夫が向かっている先は……
——もう一人の妻の家であった。
夫が妻の家へと通う「妻問婚」であった平安の御代の御公家様は、妻の実家が後ろ盾となって出世街道を歩んでいた。
さらに、複数の妻を持つことが赦されていて、実家に力のない妻は、いつ夫から離縁されても文句が云えなかった。
その和歌は、すでに親が亡くなり我が身に夫を支えてもらうべき実家がないがために、夫がほかの女の許へと向かうことを知りつつも……
それでも夫の無事を願わずにはいられない、妻の心持ちを歌っていた。
それはまた、御公儀に認められた正妻がいる尚之介への——胡蝶の遣る瀬ない心待ちにも重なっていた。
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