68 / 129
七段目
往古の場〈壱〉
しおりを挟む「吉原」は御公儀(江戸幕府)がお墨付きを与えた、たった一つの「廓」である。
よって、同じ春を鬻ぐ処であっても、品川や新宿などは「岡場所」としか名乗れない。
その吉原に入る唯一の入り口である大門は、朱色に彩られた二本の柱に黒い屋根を乗せた鏑木門だ。
そこを潜れば、右手には隙をついて吉原を出て行こうとする命知らずな遊女や女郎たちを 見世の者が見張る四郎兵衛会所、左手には御公儀に仕える同心や岡っ引き・下っ引きが諍いごとに備えて詰める面番所があった。
此処のところ、厄介な上役から身を変装す御役目を命じられておらぬ隠密廻り同心・島村 尚之介は、本日も面番所にいた。
そもそもの隠密同心の御役目は、吉原の取り締まりである。
生家は代々続く内与力の御家にもかかわらず……
御納戸色の着物の上に裾を捲って角帯に手挟んだ紋付の黒羽織、裏白の紺足袋に雪駄履き、腰には二本、水平に差された大小の刀……
——今やすっかり養家の「同心」の出で立ちが身に付きつつあった。
「……島村の旦那、いいんですかい」
くたくたに着古した木綿の着物を尻っ端折りに絡げた岡っ引き・辰吉が、ため息混じりに訊く。
「御新造さんが待つ八丁堀へ帰んねえで。祝言を挙げたばっかでござんしょう」
「あぁっ、旦那、そいつぁいけねえや。きっと早晩、御新造さんから愛想尽かされちまいやすぜ」
湯呑みに茶を淹れて持ってきた、下っ引きの伊作が口を挟む。
尚之介の切れ長の鋭い目が、辰吉と伊作を射抜いた。とても、一介の同心が放つ眼差しではない。
二十歳そこそこで、辰吉の手下の仕事をしている伊作はもちろん、すでに初老に差しかかり、今までさんざん酸いも甘いも噛み分けてきた辰吉ですら、ぶるりと震えるくらいだ。
「……ちょいとその辺を見回ってくる」
尚之介はかように告げるとすっと立ち上がり、表の通りに通じる油障子をがらりと開いた。
゜゚・*:.。. .。.:*・゜゚・*:.。. .。.:*・゜゚
「同心」は、与力の配下で手足となって働くのが御役目だ。
特に町の者たちに直に関わる「町方同心」に就いた暁には、町家で厄介ごとが起こった際には、真っ先に現場に駆けつけ御役目を果たさねばならない。
また、それらを無事に果たすためには、常日頃より岡っ引きや下っ引きなどの「手下」を自腹で雇って町家の情報を集めておかなければならない。
岡っ引きなぞになるヤツらは脛に傷を持つ身であることが多いから、腹を探り合いながら付き合わねばならぬので、骨が折れた。
つまり、与力がせぬ「汚れ仕事」を同心が一手に担っているのである。
生家の「御奉行様の側仕え」である内与力のような「綺麗」な御役目とは雲泥の差であった。
にもかかわらず、禄米が少ないのはもちろん、組屋敷も三百坪を超える与力の家に対して、同心の家は百坪あれば御の字だ。また、与力が認められている江戸府内での馬への騎乗は同心には許されていない。
さらに、同心は御公儀(江戸幕府)が直轄する町奉行所の役人なのに——「士分」ではなかった。
同心は武家である「士分」と「町人」の間に属する身分であった。ゆえに、如何に手柄を立てようとも、決して、同心が与力に取り立てられることはない。
それゆえ、跡取りのいない親戚筋から是っ非にと尚之介を所望されても、父親は我が次男を同心にさせるのを頑なに拒んだ。
また、尚之介自身にも、同心にはなりとうない理由があった。
0
お気に入りに追加
76
あなたにおすすめの小説
陸のくじら侍 -元禄の竜-
陸 理明
歴史・時代
元禄時代、江戸に「くじら侍」と呼ばれた男がいた。かつて武士であるにも関わらず鯨漁に没頭し、そして誰も知らない理由で江戸に流れてきた赤銅色の大男――権藤伊佐馬という。海の巨獣との命を削る凄絶な戦いの果てに会得した正確無比な投げ銛術と、苛烈なまでの剛剣の使い手でもある伊佐馬は、南町奉行所の戦闘狂の美貌の同心・青碕伯之進とともに江戸の悪を討ちつつ、日がな一日ずっと釣りをして生きていくだけの暮らしを続けていた……
永き夜の遠の睡りの皆目醒め
七瀬京
歴史・時代
近藤勇の『首』が消えた……。
新撰組の局長として名を馳せた近藤勇は板橋で罪人として処刑されてから、その首を晒された。
しかし、その首が、ある日忽然と消えたのだった……。
近藤の『首』を巡り、過去と栄光と男たちの愛憎が交錯する。
首はどこにあるのか。
そして激動の時代、男たちはどこへ向かうのか……。
※男性同士の恋愛表現がありますので苦手な方はご注意下さい
【完結】女神は推考する
仲 奈華 (nakanaka)
歴史・時代
父や夫、兄弟を相次いで失った太后は途方にくれた。
直系の男子が相次いて死亡し、残っているのは幼い皇子か血筋が遠いものしかいない。
強欲な叔父から持ち掛けられたのは、女である私が即位するというものだった。
まだ幼い息子を想い決心する。子孫の為、夫の為、家の為私の役目を果たさなければならない。
今までは子供を産む事が役割だった。だけど、これからは亡き夫に変わり、残された私が守る必要がある。
これは、大王となる私の守る為の物語。
額田部姫(ヌカタベヒメ)
主人公。母が蘇我一族。皇女。
穴穂部皇子(アナホベノミコ)
主人公の従弟。
他田皇子(オサダノオオジ)
皇太子。主人公より16歳年上。後の大王。
広姫(ヒロヒメ)
他田皇子の正妻。他田皇子との間に3人の子供がいる。
彦人皇子(ヒコヒトノミコ)
他田大王と広姫の嫡子。
大兄皇子(オオエノミコ)
主人公の同母兄。
厩戸皇子(ウマヤドノミコ)
大兄皇子の嫡子。主人公の甥。
※飛鳥時代、推古天皇が主人公の小説です。
※歴史的に年齢が分かっていない人物については、推定年齢を記載しています。※異母兄弟についての明記をさけ、母方の親類表記にしています。
※名前については、できるだけ本名を記載するようにしています。(馴染みが無い呼び方かもしれません。)
※史実や事実と異なる表現があります。
※主人公が大王になった後の話を、第2部として追加する可能性があります。その時は完結→連載へ設定変更いたします。
WEAK SELF.
若松だんご
歴史・時代
かつて、一人の年若い皇子がいた。
時の帝の第三子。
容姿に優れ、文武に秀でた才ある人物。
自由闊達で、何事にも縛られない性格。
誰からも慕われ、将来を嘱望されていた。
皇子の母方の祖父は天智天皇。皇子の父は天武天皇。
皇子の名を、「大津」という。
かつて祖父が造った都、淡海大津宮。祖父は孫皇子の資質に期待し、宮号を名として授けた。
壬申の乱後、帝位に就いた父親からは、その能力故に政の扶けとなることを命じられた。
父の皇后で、実の叔母からは、その人望を異母兄の皇位継承を阻む障害として疎んじられた。
皇子は願う。自分と周りの者の平穏を。
争いたくない。普通に暮らしたいだけなんだ。幸せになりたいだけなんだ。
幼い頃に母を亡くし、父と疎遠なまま育った皇子。長じてからは、姉とも引き離され、冷たい父の元で暮らした。
愛してほしかった。愛されたかった。愛したかった。
愛を求めて、周囲から期待される「皇子」を演じた青年。
だが、彼に流れる血は、彼を望まぬ未来へと押しやっていく。
ーー父についていくとはどういうことか、覚えておけ。
壬申の乱で散った叔父、大友皇子の残した言葉。その言葉が二十歳になった大津に重く、深く突き刺さる。
遠い昔、強く弱く生きた一人の青年の物語。
―――――――
weak self=弱い自分。
柳鼓の塩小町 江戸深川のしょうけら退治
月芝
歴史・時代
花のお江戸は本所深川、その隅っこにある柳鼓長屋。
なんでも奥にある柳を蹴飛ばせばポンっと鳴くらしい。
そんな長屋の差配の孫娘お七。
なんの因果か、お七は産まれながらに怪異の類にめっぽう強かった。
徳を積んだお坊さまや、修験者らが加持祈祷をして追い払うようなモノどもを相手にし、
「えいや」と塩を投げるだけで悪霊退散。
ゆえについたあだ名が柳鼓の塩小町。
ひと癖もふた癖もある長屋の住人たちと塩小町が織りなす、ちょっと不思議で愉快なお江戸奇譚。
肥後の春を待ち望む
尾方佐羽
歴史・時代
秀吉の天下統一が目前になった天正の頃、肥後(熊本)の国主になった佐々成政に対して国人たちが次から次へと反旗を翻した。それを先導した国人の筆頭格が隈部親永(くまべちかなが)である。彼はなぜ、島津も退くほどの強大な敵に立ち向かったのか。国人たちはどのように戦ったのか。そして、九州人ながら秀吉に従い国人衆とあいまみえることになった若き立花統虎(宗茂)の胸中は……。
独裁者・武田信玄
いずもカリーシ
歴史・時代
歴史の本とは別の視点で武田信玄という人間を描きます!
平和な時代に、戦争の素人が娯楽[エンターテイメント]の一貫で歴史の本を書いたことで、歴史はただ暗記するだけの詰まらないものと化してしまいました。
『事実は小説よりも奇なり』
この言葉の通り、事実の方が好奇心をそそるものであるのに……
歴史の本が単純で薄い内容であるせいで、フィクションの方が面白く、深い内容になっていることが残念でなりません。
過去の出来事ではありますが、独裁国家が民主国家を数で上回り、戦争が相次いで起こる『現代』だからこそ、この歴史物語はどこかに通じるものがあるかもしれません。
【第壱章 独裁者への階段】 国を一つにできない弱く愚かな支配者は、必ず滅ぶのが戦国乱世の習い
【第弐章 川中島合戦】 戦争の勝利に必要な条件は第一に補給、第二に地形
【第参章 戦いの黒幕】 人の持つ欲を煽って争いの種を撒き、愚かな者を操って戦争へと発展させる武器商人
【第肆章 織田信長の愛娘】 人間の生きる価値は、誰かの役に立つ生き方のみにこそある
【最終章 西上作戦】 人々を一つにするには、敵が絶対に必要である
この小説は『大罪人の娘』を補完するものでもあります。
(前編が執筆終了していますが、後編の執筆に向けて修正中です)
復讐の芽***藤林長門守***
夢人
歴史・時代
歴史小説の好きな私はそう思いながらも一度も歴史小説を書けず来ました。それがある日伊賀市に旅した時服部ではない藤林という忍者が伊賀にいたことを知りました。でも藤林の頭領は実に謎の多い人でした。夢にまで見るようになって私はその謎の多い忍者がなぜなぞに覆われているのか・・・。長門守は伊賀忍者の世界で殺されてしまっていて偽物に入れ替わっていたのだ。そしてその禍の中で長門守は我が息子を命と引き換えに守った。息子は娘として大婆に育てられて18歳になってこの謎に触れることになり、その復讐の芽が膨らむにつれてその夢の芽は育っていきました。ついに父の死の謎を知り茉緒は藤林長門守として忍者の時代を生きることになりました。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる