63 / 129
六段目
遭逢の場〈伍〉
しおりを挟む相対した広次郎に、美鶴は会釈した。
「……美鶴殿、叔父上より『話』は聞いてござるか」
広次郎から開口一番尋ねられる。
二人が祝言を挙げて夫婦にならねばならぬ話であろう。
美鶴は、こくりと肯いた。
「そなたにとっては突然の話で、きっととまどわれたでござろうが……」
「いえ、わたくしも武家に名を連ねる身、此度のごときお話は、しかと心得ておりまする」
美鶴はきっぱりと云い切った。
「……そうか」
広次郎は、ほっとした顔を見せた。
「それに、刀根さまからも武家のおなごとしての心構えを、とくと聞き及んでおるゆえ」
刀根からは、当人抜きで家同士で縁談をまとめてしまう武家では、祝言の当日に双方が初めて会うということもめずらしくないと聞いていた。
「大儀であったのではあるまいか。刀根は、なかなか手を緩めぬでござろう」
広次郎にとって刀根は「乳母」だ。幼き頃より、実の母親よりもずっと甲斐甲斐しくあれこれと世話を焼いてくれるのはいいのだが、なにせ口煩かった。
されども、それこそ幼き頃より一癖も二癖もあるお師匠たちの下で精進してきた美鶴には、師と仰ぐ者から多少理不尽なことを云われようとも、そないなものかという程度である。
それよりも刀根のおかげで、かような短い期間にもかかわらず、曲がりなりにも「武家言葉」で話せるようになったのは、滅法界にありがたかった。
「滅相もなきことにてござりまする。広次郎さまには、刀根さまと引き合わせてもらい、なんと御礼を申せばよいのか……」
美鶴は深く頭を下げた。
「いやいや、気に召されるな。そなたの言葉が、さように早う改まって、ようござった」
広次郎は面を上げるよう促す。
「……まぁ、某としては、そなたの『お故郷言葉』を、一度でも聞きとうござったがな」
——そういえば……若さまには、久喜萬字屋の「廓言葉」で、気兼ねのう話していなんしたな……
ふっ、と引き込まれるかのように兵馬のことを思い出してしまった。
あの頃の美鶴は「武家のおなご」ではなかったのだからあたりまえのことではあるが、武家の言葉にも慣れてはきたとは云え、それでもまだ口から発する前に一度頭の中で考えてからでないと、いつ廓言葉が飛び出してしまうかわからない。
気の休まることがないのは、相変わらずだ。それは、嫁入ってからもずっと続くのだ。
ゆえに、相手がお武家であろうと何の気負いもなく廓言葉で話せたあの頃が、今にしてみれば珠玉のように尊い。
最後に逢ったあの日——
兵馬は、吉原での御役目を終えたあとは、いよいよ奉行所内での御役目に入ると云っていた。
『しからば、そなたと相見えることは……もう、二度とあるまい』
だから、「舞ひつる」だった美鶴に、兵馬はそう告げたのだ。
そして此度、広次郎と夫婦にならねばならぬ美鶴に、再びあのような日が来ることは……『もう、二度とあるまい』。
——若さまは今……如何でお過ごしにありんしょう。ご息災でなんしかえ。
いったん思い出せば、みるみるうちに引き戻されていく心持ちがした。
よく似た歳格好の広次郎が祝言を挙げる、ということは——もしかしたら、そろそろ兵馬にも縁談があるのかもしれない。
——それとも、すでに許嫁が……
確か兵馬の松波家は、島村家のような同心たちを束ねる与力の御家であったはずだ。
刀根はまた、武家の縁組にはなによりも「家格」が重きをなすと美鶴に教えていた。
兵馬には、幼き頃より定められた「相手」がいるのかもしれぬ。
——きっと、同じ「与力」の御息女でなんし。
そう思ったとたん、美鶴の心の臓が、ぎりりと締めつけられた。
天地がひっくり返ったかのような、今の暮らしの中で……
いつしか兵馬の面立ちも声も姿も薄れて……
まるで霞の如く儚く消え去って……
そんなふうに、いつの間にか時は過ぎていくものだと思っていた。
されども——
美鶴は、目を閉じて俯いた。
「……美鶴殿、如何なされた」
美鶴は目を開けて広次郎を見上げた。兵馬と同じくらいの上背のように思われる。
切れ長の目に、スッと鼻筋が通っていて、ちょっと薄めの唇は……叔父である島村 勘解由によく似ていた。
その切れ長の目が降りてきて、美鶴の棗のごとき大きな瞳と出合う。
澄み切った切れ長の目が、美鶴を真っ直ぐに射抜く。
「何でも……ありませぬ」
美鶴は震えそうになる声で、なんとか答えた。
その刹那——広次郎が微笑んだ。
それは、とてもやさしげな笑みであった。
されども、その笑みはなぜか……とても……哀しげでもあった。
そして、とても——せつなげでもあった。
0
お気に入りに追加
77
あなたにおすすめの小説
校長室のソファの染みを知っていますか?
フルーツパフェ
大衆娯楽
校長室ならば必ず置かれている黒いソファ。
しかしそれが何のために置かれているのか、考えたことはあるだろうか。
座面にこびりついた幾つもの染みが、その真実を物語る
夫の色のドレスを着るのをやめた結果、夫が我慢をやめてしまいました
氷雨そら
恋愛
夫の色のドレスは私には似合わない。
ある夜会、夫と一緒にいたのは夫の愛人だという噂が流れている令嬢だった。彼女は夫の瞳の色のドレスを私とは違い完璧に着こなしていた。噂が事実なのだと確信した私は、もう夫の色のドレスは着ないことに決めた。
小説家になろう様にも掲載中です
和ませ屋仇討ち始末
志波 連
歴史・時代
山名藩家老家次男の三沢新之助が学問所から戻ると、屋敷が異様な雰囲気に包まれていた。
門の近くにいた新之助をいち早く見つけ出した安藤久秀に手を引かれ、納戸の裏を通り台所から屋内へ入っる。
久秀に手を引かれ庭の見える納戸に入った新之助の目に飛び込んだのは、今まさに切腹しようとしている父長政の姿だった。
父が正座している筵の横には変わり果てた長兄の姿がある。
「目に焼き付けてください」
久秀の声に頷いた新之助だったが、介錯の刀が振り下ろされると同時に気を失ってしまった。
新之助が意識を取り戻したのは、城下から二番目の宿場町にある旅籠だった。
「江戸に向かいます」
同行するのは三沢家剣術指南役だった安藤久秀と、新之助付き侍女咲良のみ。
父と兄の死の真相を探り、その無念を晴らす旅が始まった。
他サイトでも掲載しています
表紙は写真ACより引用しています
R15は保険です
大江戸ロミオ&ジュリエット
佐倉 蘭
歴史・時代
★第2回ベリーズカフェ恋愛ファンタジー小説大賞 最終選考作品★
公方(将軍)様のお膝元、江戸の町を守るのは犬猿の仲の「北町奉行所」と「南町奉行所」。
関係改善のため北町奉行所の「北町小町」志鶴と南町奉行所の「浮世絵与力」松波 多聞の縁組が御奉行様より命じられる。
だが、志鶴は父から「三年、辛抱せよ」と言われ、出戻れば胸に秘めた身分違いの恋しい人と夫婦になれると思い、意に添わぬ祝言を挙げる決意をしたのだった……
小学生最後の夏休みに近所に住む2つ上のお姉さんとお風呂に入った話
矢木羽研
青春
「……もしよかったら先輩もご一緒に、どうですか?」
「あら、いいのかしら」
夕食を作りに来てくれた近所のお姉さんを冗談のつもりでお風呂に誘ったら……?
微笑ましくも甘酸っぱい、ひと夏の思い出。
※性的なシーンはありませんが裸体描写があるのでR15にしています。
※小説家になろうでも同内容で投稿しています。
※2022年8月の「第5回ほっこり・じんわり大賞」にエントリーしていました。
紀伊国屋文左衛門の白い玉
家紋武範
歴史・時代
紀州に文吉という少年がいた。彼は拾われっ子で、農家の下男だった。死ぬまで農家のどれいとなる運命の子だ。
そんな文吉は近所にすむ、同じく下女の“みつ”に恋をした。二人は将来を誓い合い、金を得て農地を買って共に暮らすことを約束した。それを糧に生きたのだ。
しかし“みつ”は人買いに買われていった。将来は遊女になるのであろう。文吉はそれを悔しがって見つめることしか出来ない。
金さえあれば──。それが文吉を突き動かす。
下男を辞め、醤油問屋に奉公に出て使いに出される。その帰り、稲荷神社のお社で休憩していると不思議な白い玉に“出会った”。
超貧乏奴隷が日本一の大金持ちになる成り上がりストーリー!!
ママと中学生の僕
キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる