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六段目
遭逢の場〈伍〉
しおりを挟む相対した広次郎に、美鶴は会釈した。
「……美鶴殿、叔父上より『話』は聞いてござるか」
広次郎から開口一番尋ねられる。
二人が祝言を挙げて夫婦にならねばならぬ話であろう。
美鶴は、こくりと肯いた。
「そなたにとっては突然の話で、きっととまどわれたでござろうが……」
「いえ、わたくしも武家に名を連ねる身、此度のごときお話は、しかと心得ておりまする」
美鶴はきっぱりと云い切った。
「……そうか」
広次郎は、ほっとした顔を見せた。
「それに、刀根さまからも武家のおなごとしての心構えを、とくと聞き及んでおるゆえ」
刀根からは、当人抜きで家同士で縁談をまとめてしまう武家では、祝言の当日に双方が初めて会うということもめずらしくないと聞いていた。
「大儀であったのではあるまいか。刀根は、なかなか手を緩めぬでござろう」
広次郎にとって刀根は「乳母」だ。幼き頃より、実の母親よりもずっと甲斐甲斐しくあれこれと世話を焼いてくれるのはいいのだが、なにせ口煩かった。
されども、それこそ幼き頃より一癖も二癖もあるお師匠たちの下で精進してきた美鶴には、師と仰ぐ者から多少理不尽なことを云われようとも、そないなものかという程度である。
それよりも刀根のおかげで、かような短い期間にもかかわらず、曲がりなりにも「武家言葉」で話せるようになったのは、滅法界にありがたかった。
「滅相もなきことにてござりまする。広次郎さまには、刀根さまと引き合わせてもらい、なんと御礼を申せばよいのか……」
美鶴は深く頭を下げた。
「いやいや、気に召されるな。そなたの言葉が、さように早う改まって、ようござった」
広次郎は面を上げるよう促す。
「……まぁ、某としては、そなたの『お故郷言葉』を、一度でも聞きとうござったがな」
——そういえば……若さまには、久喜萬字屋の「廓言葉」で、気兼ねのう話していなんしたな……
ふっ、と引き込まれるかのように兵馬のことを思い出してしまった。
あの頃の美鶴は「武家のおなご」ではなかったのだからあたりまえのことではあるが、武家の言葉にも慣れてはきたとは云え、それでもまだ口から発する前に一度頭の中で考えてからでないと、いつ廓言葉が飛び出してしまうかわからない。
気の休まることがないのは、相変わらずだ。それは、嫁入ってからもずっと続くのだ。
ゆえに、相手がお武家であろうと何の気負いもなく廓言葉で話せたあの頃が、今にしてみれば珠玉のように尊い。
最後に逢ったあの日——
兵馬は、吉原での御役目を終えたあとは、いよいよ奉行所内での御役目に入ると云っていた。
『しからば、そなたと相見えることは……もう、二度とあるまい』
だから、「舞ひつる」だった美鶴に、兵馬はそう告げたのだ。
そして此度、広次郎と夫婦にならねばならぬ美鶴に、再びあのような日が来ることは……『もう、二度とあるまい』。
——若さまは今……如何でお過ごしにありんしょう。ご息災でなんしかえ。
いったん思い出せば、みるみるうちに引き戻されていく心持ちがした。
よく似た歳格好の広次郎が祝言を挙げる、ということは——もしかしたら、そろそろ兵馬にも縁談があるのかもしれない。
——それとも、すでに許嫁が……
確か兵馬の松波家は、島村家のような同心たちを束ねる与力の御家であったはずだ。
刀根はまた、武家の縁組にはなによりも「家格」が重きをなすと美鶴に教えていた。
兵馬には、幼き頃より定められた「相手」がいるのかもしれぬ。
——きっと、同じ「与力」の御息女でなんし。
そう思ったとたん、美鶴の心の臓が、ぎりりと締めつけられた。
天地がひっくり返ったかのような、今の暮らしの中で……
いつしか兵馬の面立ちも声も姿も薄れて……
まるで霞の如く儚く消え去って……
そんなふうに、いつの間にか時は過ぎていくものだと思っていた。
されども——
美鶴は、目を閉じて俯いた。
「……美鶴殿、如何なされた」
美鶴は目を開けて広次郎を見上げた。兵馬と同じくらいの上背のように思われる。
切れ長の目に、スッと鼻筋が通っていて、ちょっと薄めの唇は……叔父である島村 勘解由によく似ていた。
その切れ長の目が降りてきて、美鶴の棗のごとき大きな瞳と出合う。
澄み切った切れ長の目が、美鶴を真っ直ぐに射抜く。
「何でも……ありませぬ」
美鶴は震えそうになる声で、なんとか答えた。
その刹那——広次郎が微笑んだ。
それは、とてもやさしげな笑みであった。
されども、その笑みはなぜか……とても……哀しげでもあった。
そして、とても——せつなげでもあった。
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