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六段目
刀自の場〈参〉
しおりを挟む「さて……」
おさとは袖を引っ張り、その先で潤んでいた目元をすっすっと拭うと、
「急いでお茶を持ってくるんで、表で買ってきなすったお菜を食べておくんなせぇ」
明るく云って、立ち上がった。
——さようでなんした。
美鶴は納戸から持ってきたお菜に目を落とした。
——このままでは危うく「江戸患い」になるところでありんした。
「江戸患い」とは、野菜などが不足して足がむくんで痺れ、やがては心の臓が弱まっていくという「脚気」のことである。歴代の公方(将軍)様の幾人かも患って、死に至らしめた怖ろしい病だ。
実は玄米に含まれる成分でかなり防げるのだが、精米の技に優れた江戸では白米を食しているがために患う者が多かった。だから、養生のため諸国に下ると、自然と玄米を食するようになるので、病が軽くなる。
ゆえに、人々から「江戸患い」と称された。
「お嬢、これからはお菜が入り用なときには、あたいにお申し付けくだせぇ」
美鶴はようやく、棒手振りより買い求めたお菜を腹に収めることができることになった。
゜゚・*:.。. .。.:*・゜゚・*:.。. .。.:*・゜゚
そして、数日後……
広次郎から言伝を命じられた、上條家の中間がやってきた。
これから、言葉をはじめとする武家での作法を美鶴に教える相手は、島村の家の向かいに居を構える御隠居・千葉 平兵衛の後妻だと告げられる。
「……そうか、あの御婆さまがのう……」
脇に座して聞いていた多喜が、満足げに嗤った。
「しからば、何処に出ても恥ずかしゅうないよう、さぞかしそなたを躾けてくれようぞ」
早速、美鶴は向かいの御家に赴いた。
手土産を持つおさとが、後ろから付き従う。
「武家の娘」が外出する際には、たとえ目と鼻の先の処であれ、女中が「供」として付き添うことになっている。
もしも、組屋敷などの武家屋敷より外に出るのであらば、女中だけではなく、さらに男の中間が付く。
千葉家の門の前に立ち、おさとが美鶴の代わりに訪いをする。
すると中間が出てきたため、おさとが本日参った所以を話すと、すぐに家の中へと招じられた。
中間と代わった女中によって、美鶴は屋敷内を案内されながら、島村の家とさほど変わらぬ広さと各々の部屋の配置だと思った。
武家屋敷とは、かようなものであるのだろう。
客間の座敷に通されて、供された茶を飲みつつ待っていると、やがて一人の老婆が姿を見せた。
御隠居・千葉 平兵衛が妻、刀根であった。
刀根の夫である千葉 平兵衛は隠居する前、江戸の市中で悪さをする輩に目を光らせて直に取り締まる「定廻り同心」を長らく務めた。
そのあとは、北町奉行所に属する総勢百名にもなる同心たちを束ねる「臨時廻り同心」の任に就いたが、今はきれいさっぱり退いて跡目を嫡子に譲り、悠々自適の暮らしをしていた。
よって、付き従う身である妻の刀根もまた凪いだ日々を送っていた。
「お待たせした。千葉 平兵衛が妻、刀根にてごさりまする」
出入り口の辺りで控えていたおさとが、ひれ伏したまま、持参した手土産をすーっと差し出す。
刀根が我がの女中を見遣った。すると、その女中がすかさず歩み出て、恭しくそれを受け取る。
黒と見紛う千歳茶の着物を纏う刀根は、歳の頃すでに六十の半ばであろうかと思われた。
されども、ぴんと伸ばした背筋に張りのある声で、美鶴には舌を噛みそうな口上を、いっさい淀むことなく、すらりと告げる。
「此度は当家に過分な御土産を賜り、誠にありがたきことにてござりまする。されども、今後はどうか御心遣いのなきよう、そなたから島村様の奥方によしなにお伝え願い奉りまする」
美鶴は深々と平伏した。
「し、島村の家から参った……み、美鶴と申し……な、何卒、よろしゅう……」
ほんの少しでも気を許せば、「なんし」という廓言葉が飛び出そうだ。
刀根が、ぐっと眉根を寄せた。
「そなた、そないな無礼千万な物云いで、よくもまぁ……『武家の女子』と名乗っておるな」
——あぁ、所詮この御方も、島村の御新造と同じようなものでなんしか……
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