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六段目
刀自の場〈弐〉
しおりを挟む「上條さま、あ…ありがとうございまする」
美鶴が深々と頭を垂れた。本日何度目になるのかわからぬほどだが、うれしさゆえなのは此度だけであった。
すると……
「……くっ」
という声が聞こえたため、思わず顔を上げると、
「そなたから、初めて『申し訳ありませぬ』以外の言葉が聞けたな」
広次郎が口許を握り拳で隠しつつ、笑みを漏らしていた。
切れ長の目の端が、こころなしか、下がって見える。
「もっ、申し訳あ……」
「その言葉は聞き飽きたでござる」
美鶴の言は、すかさず制された。
「それから、某のことは家名ではなく、通り名の方で呼んでもらえぬか。まもなく、家名が『島村』になるのでな」
——ということは……「広次郎」さま、でなんしかえ。
とは云え——
「廓の妓」であった頃ならいざ知らず、「武家のおなご」となった今、初めて会うた男を名で馴れ馴れしく呼ぶのは、きっとはしたなきことであるに違いない。
美鶴が如何いたそうか、と目を泳がせていると、
「……では、仔細は後日ということにて。しからば、これにて御免」
さっと表情を改めた広次郎はさように告げると、すっと踵を返し、あっさりと去って行った。
もともと、縁側の廊下に居住まい正しく立っており、女人である美鶴の部屋には一歩たりとも足を踏み入れていなかった。
゜゚・*:.。. .。.:*・゜゚・*:.。. .。.:*・゜゚
「あ、あの……」
おずおずとした声をかけられた。
美鶴がそちらを見ると、縁側で控えるようにおさとが正座をしていた。
そのおさとが、がばりとひれ伏した。
「お嬢……いくら御新造さんのお云いつけとはいえ、今までとんだ無礼をして、誠にすまんこってす」
突然のことに、美鶴はびっくりしてしまった。
「奉公人風情が御家のことに口を挟むのはご法度だってのは、重々わかっとるこってすが……」
おさとは緊張からか、つっかえ気味ながらも、それでも言葉を重ねていった。
「だけど、御新造さんの仕打ちがあんまりだもんで……でも、一緒にやらなきゃなんねぇし……あたい、だんだんつらくなってきちまって……」
顔を上げたおさとは、ぐすっと洟を啜った。
今までまじまじと見ることはなかったが、丸顔でまだあどけなさを残す——美鶴とさほど変わらぬ歳のおなごであった。
「それに……このままお菜を喰わねえと……お嬢がいつか『江戸患い』になっちまうんじゃねぇかと、怖くなってきちまって……。そんなときに、上條さまが今日ひさびさにお越しになったもんだから……御新造さんの目を盗んで、思い切って……」
広次郎が美鶴の居場所を知れたのは、おさとのおかげであったのだ。
道理で、あのような離れの納戸にまでやって来られたはずだ。美鶴自身、今までおさと以外のこの家の奉公人を目にしたことがないくらいだった。
美鶴はあわてて首を左右に振った。言葉で表せないのが、もどかしい。
「あの……あたいはお嬢がどんなにお故郷言葉がひどかろうと、決して笑うことはねえんで……」
おさとが恐る恐るではあるがさように云ってくれて、美鶴は心底うれしかった。
されども悲しい哉、町家の出のおさとの方が、むしろ武家の多喜よりも廓言葉に気づく虞があった。
「……ありがとう……おさとさん」
ゆえに、美鶴が云えるのは、かばかりだ。
——早うお武家の言葉が話せるよう、なりとうなんし。
強く、つよく思った。
「お武家のお嬢が、あたいらみたいな町家の者に『さん』はいらねえ。『おさと』と呼び捨てにしておくんなせぇ」
ようやっと、安心して話せそうな相手と出会えたと思ったが、すっと一線を引かれてしまった。
だが、仕方あるまい。これからは「武家のおなご」らしく生きていかねばならぬのだ。
美鶴はこっくりと肯いた。
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