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六段目
閾の場〈参〉
しおりを挟む腰に長刀・短刀を二本差ししていることから、武家であろう。
切れ長の目に、スッと鼻筋が通っていて、ちょっと薄めの唇。頭は粋な本多髷だ。
——歳の頃は……若さまと同じくらいでなんし……
美鶴はその男を見つめた。
——あの夜……とうとう行けずじまいでありんしたが……若さまは……わっちを待っていなんしたであろうか……
美鶴に後ろめたさが込み上げてきて、思わず男から目を逸らした。
すっかり変わってしまった目まぐるしい暮らしに……
吉原の廓の妓であったことをひたすら隠して過ごす日々に……
いつしか霞がかかったように朧げになっていた若さま——兵馬の姿が、目の前の男を見て心にありありと甦ってきた。
「か、上條さまっ」
すぐさま多喜は膝を折って正座し、男に向かって平伏した。
「なにゆえ、かようなむさ苦しい処へ……何卒、母屋へお戻りくだされ」
「……そなたはまだ、さような堅苦しき物云いをされるか、叔母上」
上條さま、と呼ばれた男が、板の間でひれ伏す多喜を見て苦々しげに笑った。
「されども、同心ごときの妻であるわたくしめが、内与力の上條さまに無作法な物云いなぞできませぬゆえ」
多喜はさらに深く頭を下げた。
「御公儀より内与力の御役目をいただいておるのは、我が父とその跡を継ぐ我が兄にてござる。次男坊の某は、ゆくゆくは叔父上の跡を継ぎ、同心としてこの島村家に入ることになっておるというのに」
美鶴は、この屋敷の主人とその妻・多喜の間に子がいなかったことを思い出した。
男が「叔父上」「叔母上」と呼んでいることから、身分の差はあれど彼らの「甥」なのであろう。
男は、片隅にきちんと畳まれていた敷布団と夜着を見た。
「もしや、この部屋……というか、納戸で寝起きをしておるのではあるまいか」
途端に、多喜の肩がぴくりと跳ねた。
「おい」
男は今度は縁側の方に目を向けた。其処には控えるようにして、おさとが正座していた。
「悪いが、早急にもっと陽当たりの良い、まともな部屋を支度してくれ」
男はさように云いつけると、おさとは「へぇ」と応えて、直ちに立ち上がる。
「おさと、待たれよっ」
あわてて多喜が制する。
「かっ、上條さま……この者にお構いなきようお願い申し上げまする」
「されども……かような辛気臭い処、今に病を得てしまうぞ。すでにこの方の顔色が、すぐれぬように見受けてござるが」
男が訝しげに顔を顰めた。
「こっ、この者は不届きなことばかりをしでかすゆえ……ば、罰にてござりまする」
そして、多喜は美鶴の前に並べられたお菜を指差した。
「ほれ、あのとおり、この者は自ずから行商人より下賤な物を求めおって、武家のおなごにあるまじき賤しき所業をいたしておりまする」
「も…申し訳ありませぬ」
美鶴は男に向かって平伏した。
「某に頭を下げることはないゆえ、どうか面を上げてくだされ」
男は美鶴に向けて、穏やかに告げた。
「某は、上條 広次郎と申す。北町奉行所の内与力・上條 広之進が息子にて生まれしが、次男ゆえに生家を出てこの島村家に養嗣子として入ることになっておる者でござる。……そなたの名は何と云うのか」
「み、美鶴で……ござりまする」
面を上げることなく、美鶴は名乗った。とりあえず『ござりまする』と語尾に付けておいた。
「かっ、勝手に名乗りを挙げるものではないっ、烏滸がましい」
多喜の声が割って入った。
「……ところで」
男——広次郎が多喜に問うた。
「叔母上、そなたの云うこの者の『罰』とやらは……叔父上も御承知のことであるのか」
一瞬にして、多喜の顔が色を失くした。
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