52 / 129
六段目
閾の場〈壱〉
しおりを挟む来る日も来る日も、美鶴は雑巾を縫う手を止めることなく励み続けた。
とりあえず一枚を縫い上げると、いつも忙しなげに立ち動いているおさとを悪いと思いつつ呼び止め、見てもらう。
もし良ければ次の一枚に取り掛かれるが、悪ければ糸を解いてまたやり直しだ。
゜゚・*:.。. .。.:*・゜゚・*:.。. .。.:*・゜゚
この日も朝から縫い物をしていると、家屋敷の塀の向こうから、棒手振りと呼ばれる行商人の売り声が聞こえてきた。
いつもは魚や野菜を鬻ぐ声であるのに、今日はめずらしくお菜(惣菜)である。
美鶴は居ても立ってもいられず、奥の箪笥にしまっておいた巾着を取り出した。そして、其処からいくらか銭を取り出し、袂へ入れる。
部屋から縁側に出ると、おそらくおさとのものであろう。下駄があった。その下駄をつっかけ、急いで板塀へと向かう。
ぐるりを見渡すと、裏口と思しき処に木戸があった。美鶴はその木戸を開けて、表に出る。
あの日、真夜中に此処に連れてこられたとき以来、ひさかたぶりの「外」であった。
公方(将軍)様や大名ならいざ知らず、江戸の者たちは武家であれ商家であれ「一汁一菜」が基である。米の飯または粟や芋などが混じった「かて飯」に、おみおつけの汁物、そしてお菜が一品つく。
だが、奉公人を雇う屋敷ではお菜は出されず、米の飯とおみおつけと香物のみが供される。そのため、奉公人たちは各々で辻まで出て、屋台や棒手振りから好きなお菜を買ってきて、屋敷で出されたものと共に食す。
江戸は男の町である。男の数がおなごの五、六倍はいた。
三代の公方様(徳川家光)による藩主(大名)たちへの一年ごとに領地と江戸を往復する御触れ(参勤交代)のために、諸国の藩から男たちが藩主に付き従ってやって来ざるを得なくなったためだ。
ところが、「入り鉄砲と出女」の御触れによって、江戸へのおなごの出入りを厳しくしたものだから、ますます男ばかりになった。ゆえに、江戸の男たちには一生涯独り身である者が少なくない。
すると、煮炊きのできぬそのような男たちに向けて、屋台や棒手振りたちがお菜を売るようになった。
ちなみに、女房が「三行半」を亭主からもらわないと再嫁できなかったのは、せっかく手に入れた女房を手放したくない「江戸の亭主」の執念が御公儀(江戸幕府)を動かしたからである。
また、お菜が気楽に手に入れられるのは、独り身の男だけではなく、子だくさんで忙しない長屋の女房連中にも受けた。
犇き合うように並んだ長屋で煮炊きをしなくてもよいということは、竈も七輪も出番がなく火も出ぬから、火事がなにより怖い江戸の町にとっても好都合だった。
屋敷で支度された美鶴の膳は、奉公人たちと同じものであった。
つまり、お菜がなく、米の飯とおみおつけと香物のみだったのだ。
吉原の廓は一見華やかに見えるが、妓たちに供するおまんまは実にお粗末なものであった。それでもなにかしらのお菜はあったし、客が残した御馳走にありつける日も少なくなかった。
美鶴にとって、かようにお菜のない日が続いたのは——生まれて初めてのことだった。
「ちょいと、棒手振りさんっ」
通り過ぎようとしていた棒手振りに、美鶴は呼びかけた。
0
お気に入りに追加
76
あなたにおすすめの小説
一ト切り 奈落太夫と堅物与力
相沢泉見@8月時代小説刊行
歴史・時代
一ト切り【いっときり】……線香が燃え尽きるまでの、僅かなあいだ。
奈落大夫の異名を持つ花魁が華麗に謎を解く!
絵師崩れの若者・佐彦は、幕臣一の堅物・見習与力の青木市之進の下男を務めている。
ある日、頭の堅さが仇となって取り調べに行き詰まってしまった市之進は、筆頭与力の父親に「もっと頭を柔らかくしてこい」と言われ、佐彦とともにしぶしぶ吉原へ足を踏み入れた。
そこで出会ったのは、地獄のような恐ろしい柄の着物を纏った目を瞠るほどの美しい花魁・桐花。またの名を、かつての名花魁・地獄太夫にあやかって『奈落太夫』という。
御免色里に来ているにもかかわらず仏頂面を崩さない市之進に向かって、桐花は「困り事があるなら言ってみろ」と持ちかけてきて……。
御庭番のくノ一ちゃん ~華のお江戸で花より団子~
裏耕記
歴史・時代
御庭番衆には有能なくノ一がいた。
彼女は気ままに江戸を探索。
なぜか甘味巡りをすると事件に巡り合う?
将軍を狙った陰謀を防ぎ、夫婦喧嘩を仲裁する。
忍術の無駄遣いで興味を満たすうちに事件が解決してしまう。
いつの間にやら江戸の闇を暴く捕物帳?が開幕する。
※※
将軍となった徳川吉宗と共に江戸へと出てきた御庭番衆の宮地家。
その長女 日向は女の子ながらに忍びの技術を修めていた。
日向は家事をそっちのけで江戸の街を探索する日々。
面白そうなことを見つけると本来の目的であるお団子屋さん巡りすら忘れて事件に首を突っ込んでしまう。
天真爛漫な彼女が首を突っ込むことで、事件はより複雑に?
周囲が思わず手を貸してしまいたくなる愛嬌を武器に事件を解決?
次第に吉宗の失脚を狙う陰謀に巻き込まれていく日向。
くノ一ちゃんは、恩人の吉宗を守る事が出来るのでしょうか。
そんなお話です。
一つ目のエピソード「風邪と豆腐」は12話で完結します。27,000字くらいです。
エピソードが終わるとネタバレ含む登場人物紹介を挟む予定です。
ミステリー成分は薄めにしております。
作品は、第9回歴史・時代小説大賞の参加作です。
投票やお気に入り追加をして頂けますと幸いです。
大日本帝国、アラスカを購入して無双する
雨宮 徹
歴史・時代
1853年、ロシア帝国はクリミア戦争で敗戦し、財政難に悩んでいた。友好国アメリカにアラスカ購入を打診するも、失敗に終わる。1867年、すでに大日本帝国へと生まれ変わっていた日本がアラスカを購入すると金鉱や油田が発見されて……。
大日本帝国VS全世界、ここに開幕!
※架空の日本史・世界史です。
※分かりやすくするように、領土や登場人物など世界情勢を大きく変えています。
※ツッコミどころ満載ですが、ご勘弁を。
天保戯作者備忘録 ~大江戸ラノベ作家夢野枕辺~
大澤伝兵衛
歴史・時代
時は天保年間、老中水野忠邦による天保の改革の嵐が吹き荒れ、江戸の町人が大いに抑圧されていた頃の話である。
戯作者夢野枕辺は、部屋住みのごくつぶしの侍が大八車にはねられ、仏の導きで異世界に転生して活躍する筋書きの『異世界転生侍』で大人気を得ていた。しかし内容が不謹慎であると摘発をくらい、本は絶版、当人も処罰を受ける事になってしまう。
だが、その様な事でめげる夢野ではない。挿絵を提供してくれる幼馴染にして女絵師の綾女や、ひょんなことから知り合った遊び人の東金と協力して、水野忠邦の手先となって働く南町奉行鳥居甲斐守耀蔵や、その下でうまい汁を吸おうとする木端役人と対決していくのであった。
南町奉行所お耳役貞永正太郎の捕物帳
勇内一人
歴史・時代
第9回歴史・時代小説大賞奨励賞受賞作品に2024年6月1日より新章「材木商桧木屋お七の訴え」を追加しています(続きではなく途中からなので、わかりづらいかもしれません)
南町奉行所吟味方与力の貞永平一郎の一人息子、正太郎はお多福風邪にかかり両耳の聴覚を失ってしまう。父の跡目を継げない彼は吟味方書物役見習いとして南町奉行所に勤めている。ある時から聞こえない正太郎の耳が死者の声を拾うようになる。それは犯人や証言に不服がある場合、殺された本人が異議を唱える声だった。声を頼りに事件を再捜査すると、思わぬ真実が発覚していく。やがて、平一郎が喧嘩の巻き添えで殺され、正太郎の耳に亡き父の声が届く。
表紙はパブリックドメインQ 著作権フリー絵画:小原古邨 「月と蝙蝠」を使用しております。
2024年10月17日〜エブリスタにも公開を始めました。
鵺の哭く城
崎谷 和泉
歴史・時代
鵺に取り憑かれる竹田城主 赤松広秀は太刀 獅子王を継承し戦国の世に仁政を志していた。しかし時代は冷酷にその運命を翻弄していく。本作は竹田城下400年越しの悲願である赤松広秀公の名誉回復を目的に、その無二の友 儒学者 藤原惺窩の目を通して描く短編小説です。
剣客居酒屋 草間の陰
松 勇
歴史・時代
酒と肴と剣と闇
江戸情緒を添えて
江戸は本所にある居酒屋『草間』。
美味い肴が食えるということで有名なこの店の主人は、絶世の色男にして、無双の剣客でもある。
自分のことをほとんど話さないこの男、冬吉には実は隠された壮絶な過去があった。
多くの江戸の人々と関わり、その舌を満足させながら、剣の腕でも人々を救う。
その慌し日々の中で、己の過去と江戸の闇に巣食う者たちとの浅からぬ因縁に気付いていく。
店の奉公人や常連客と共に江戸を救う、包丁人にして剣客、冬吉の物語。
くじら斗りゅう
陸 理明
歴史・時代
捕鯨によって空前の繁栄を謳歌する太地村を領内に有する紀伊新宮藩は、藩の財政を活性化させようと新しく藩直営の鯨方を立ち上げた。はぐれ者、あぶれ者、行き場のない若者をかき集めて作られた鵜殿の村には、もと武士でありながら捕鯨への情熱に満ちた権藤伊左馬という巨漢もいた。このままいけば新たな捕鯨の中心地となったであろう鵜殿であったが、ある嵐の日に突然現れた〈竜〉の如き巨大な生き物を獲ってしまったことから滅びへの運命を歩み始める…… これは、愛憎と欲望に翻弄される若き鯨猟夫たちの青春譚である。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる