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五段目
忍苦の場〈参〉
しおりを挟む多喜がまったく顔を見せなくなった。
浴衣を縫うように命じられた以外には、なにも云われておらぬゆえ、美鶴にはすることがない。
廓にいたときは、見世の御座敷に歌舞音曲の稽古にと、休む間もなく立ち動いていた身である。どうにも間が持たない。
——舞をしとうなんし……
思えば、大川(隅田川)の川開きの日に姉女郎の羽衣と御座敷で舞ったのが、最後となった。
正直を申せば、もっともっと稽古を重ねて、かの道を極めたかった。
まさか、我が身の行く末に舞うことのできぬ日々が来ようなど、思いもよらなかった。
いずれ廓での年季が明けた暁には、見世に残り若い妓たちに舞を教えて暮らしを立てようか、と思い描いていたくらいだ。
——舞うのは無理でも、せめて、そっと端唄でも口ずさみとうなんし……
「舞ひつる」であった頃、舞と同じくして唄も精進していた。なにもすることがなく、じっとしているままだと、自ずと口をついて出てきそうだ。
もし、その唄が家中の者に聴かれでもすれば大事になってしまう。となれば、大恩ある久喜萬字屋にとっても一大事となろう。
にもかかわらず、今の美鶴にはあの難儀したお三味ですら、弾けるものなら喜び勇んで弾きたい、と思わずにはいられぬ心持ちになっていた。
——さすれども……いつまでも、そないな泣き言を云うてはおられぬなんし。
たとえ如何なる謗りを受けようとも、今のおのれはこの場で生きてゆかねばならぬ定めなのだ。おまんまと着る物と寝起きする場が与えられているだけ上等、と思わねばならぬ。
身分の上の者に頭を垂れ続けることで、世知辛い世間に放り出されずかように生きていけるのならば、美鶴にとってはお安い御用だった。
そもそもが、廓の酔客に傅いて生きてこざるを得なかった、下賤な身の上である。
——さすればこそ……「苦界」で生まれ育った妓の「意地」もありんす。
゜゚・*:.。. .。.:*・゜゚・*:.。. .。.:*・゜゚
すっかり間を持て余していた処に、縁側を雑巾掛けするためにおさとがやってきた。
「あっ、我が身にも雑巾を……」
決して「なんし」という廓言葉が出ぬよう用心しつつ、美鶴はなんとか声をかけた。
「と、とんでもねぇっ」
いきなり、強い物言いで突っぱねられた。
「お嬢には、手の荒れるような真似をさせちゃなんねえ、っつうことになってるんで」
おさとはそう云うなり、そそくさと雑巾掛けを始めた。こうなると、声をかけては仕事の邪魔になる。
——『手の荒れる』水仕事を禁じられたがゆえの「縫い物」でありんしたか……
たった今「お嬢」と呼ばれたことや、そもそも白足袋が与えられていることからも、当家では美鶴がおさとみたいな下働きとは、一線を画す扱いであることは確かなようだ。
とならば、やはりこの家が美鶴の「身請け先」であろうか。
だが、しかし……
武家の家格が如何なるものか、美鶴にはとんと判らぬが、この家の無駄を極力省いた簡素な造りや、主の妻である多喜の地味で質素な身形からは、吉原の振袖新造を落籍るほどの財力があるとは、到底思えなかった。
改めて、美鶴は考えてみた。
今のおのれは、何のために此処に連れてこられたのか、さっぱり判っていない。
であるならば、せめて身の上に置かれた状況がはっきりとするまで、息を潜めるように大人しくしているのが得策かもしれぬ。
——わっちは縫い物でもして、この間を持たすのがよろしゅうなんし。
浴衣の反物は引き上げられてしまったが、針箱はあるのだから、布切れさえあれば縫うことはできる。幼き頃より精進してきた歌舞音曲など同じ「稽古」だと思って励めばよい。
——幸いなことに此処は納戸でありんす。探れば、なにか出てくるかもしれぬなんし。
かように思い立つと、美鶴は部屋の中を探し始めた。
果たして、古びた箪笥の抽斗の奥に、なにかで余ったであろう布の切れ端があった。
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