48 / 129
五段目
忍苦の場〈参〉
しおりを挟む多喜がまったく顔を見せなくなった。
浴衣を縫うように命じられた以外には、なにも云われておらぬゆえ、美鶴にはすることがない。
廓にいたときは、見世の御座敷に歌舞音曲の稽古にと、休む間もなく立ち動いていた身である。どうにも間が持たない。
——舞をしとうなんし……
思えば、大川(隅田川)の川開きの日に姉女郎の羽衣と御座敷で舞ったのが、最後となった。
正直を申せば、もっともっと稽古を重ねて、かの道を極めたかった。
まさか、我が身の行く末に舞うことのできぬ日々が来ようなど、思いもよらなかった。
いずれ廓での年季が明けた暁には、見世に残り若い妓たちに舞を教えて暮らしを立てようか、と思い描いていたくらいだ。
——舞うのは無理でも、せめて、そっと端唄でも口ずさみとうなんし……
「舞ひつる」であった頃、舞と同じくして唄も精進していた。なにもすることがなく、じっとしているままだと、自ずと口をついて出てきそうだ。
もし、その唄が家中の者に聴かれでもすれば大事になってしまう。となれば、大恩ある久喜萬字屋にとっても一大事となろう。
にもかかわらず、今の美鶴にはあの難儀したお三味ですら、弾けるものなら喜び勇んで弾きたい、と思わずにはいられぬ心持ちになっていた。
——さすれども……いつまでも、そないな泣き言を云うてはおられぬなんし。
たとえ如何なる謗りを受けようとも、今のおのれはこの場で生きてゆかねばならぬ定めなのだ。おまんまと着る物と寝起きする場が与えられているだけ上等、と思わねばならぬ。
身分の上の者に頭を垂れ続けることで、世知辛い世間に放り出されずかように生きていけるのならば、美鶴にとってはお安い御用だった。
そもそもが、廓の酔客に傅いて生きてこざるを得なかった、下賤な身の上である。
——さすればこそ……「苦界」で生まれ育った妓の「意地」もありんす。
゜゚・*:.。. .。.:*・゜゚・*:.。. .。.:*・゜゚
すっかり間を持て余していた処に、縁側を雑巾掛けするためにおさとがやってきた。
「あっ、我が身にも雑巾を……」
決して「なんし」という廓言葉が出ぬよう用心しつつ、美鶴はなんとか声をかけた。
「と、とんでもねぇっ」
いきなり、強い物言いで突っぱねられた。
「お嬢には、手の荒れるような真似をさせちゃなんねえ、っつうことになってるんで」
おさとはそう云うなり、そそくさと雑巾掛けを始めた。こうなると、声をかけては仕事の邪魔になる。
——『手の荒れる』水仕事を禁じられたがゆえの「縫い物」でありんしたか……
たった今「お嬢」と呼ばれたことや、そもそも白足袋が与えられていることからも、当家では美鶴がおさとみたいな下働きとは、一線を画す扱いであることは確かなようだ。
とならば、やはりこの家が美鶴の「身請け先」であろうか。
だが、しかし……
武家の家格が如何なるものか、美鶴にはとんと判らぬが、この家の無駄を極力省いた簡素な造りや、主の妻である多喜の地味で質素な身形からは、吉原の振袖新造を落籍るほどの財力があるとは、到底思えなかった。
改めて、美鶴は考えてみた。
今のおのれは、何のために此処に連れてこられたのか、さっぱり判っていない。
であるならば、せめて身の上に置かれた状況がはっきりとするまで、息を潜めるように大人しくしているのが得策かもしれぬ。
——わっちは縫い物でもして、この間を持たすのがよろしゅうなんし。
浴衣の反物は引き上げられてしまったが、針箱はあるのだから、布切れさえあれば縫うことはできる。幼き頃より精進してきた歌舞音曲など同じ「稽古」だと思って励めばよい。
——幸いなことに此処は納戸でありんす。探れば、なにか出てくるかもしれぬなんし。
かように思い立つと、美鶴は部屋の中を探し始めた。
果たして、古びた箪笥の抽斗の奥に、なにかで余ったであろう布の切れ端があった。
0
お気に入りに追加
75
あなたにおすすめの小説
富嶽を駆けよ
有馬桓次郎
歴史・時代
★☆★ 第10回歴史・時代小説大賞〈あの時代の名脇役賞〉受賞作 ★☆★
https://www.alphapolis.co.jp/prize/result/853000200
天保三年。
尾張藩江戸屋敷の奥女中を勤めていた辰は、身長五尺七寸の大女。
嫁入りが決まって奉公も明けていたが、女人禁足の山・富士の山頂に立つという夢のため、養父と衝突しつつもなお深川で一人暮らしを続けている。
許婚の万次郎の口利きで富士講の大先達・小谷三志と面会した辰は、小谷翁の手引きで遂に富士山への登拝を決行する。
しかし人目を避けるために選ばれたその日程は、閉山から一ヶ月が経った長月二十六日。人跡の絶えた富士山は、五合目から上が完全に真冬となっていた。
逆巻く暴風、身を切る寒気、そして高山病……数多の試練を乗り越え、無事に富士山頂へ辿りつくことができた辰であったが──。
江戸後期、史上初の富士山女性登頂者「高山たつ」の挑戦を描く冒険記。
夕映え~武田勝頼の妻~
橘 ゆず
歴史・時代
天正十年(1582年)。
甲斐の国、天目山。
織田・徳川連合軍による甲州征伐によって新府を追われた武田勝頼は、起死回生をはかってわずかな家臣とともに岩殿城を目指していた。
そのかたわらには、五年前に相模の北条家から嫁いできた継室、十九歳の佐奈姫の姿があった。
武田勝頼公と、18歳年下の正室、北条夫人の最期の数日を描いたお話です。
コバルトの短編小説大賞「もう一歩」の作品です。
肥後の春を待ち望む
尾方佐羽
歴史・時代
秀吉の天下統一が目前になった天正の頃、肥後(熊本)の国主になった佐々成政に対して国人たちが次から次へと反旗を翻した。それを先導した国人の筆頭格が隈部親永(くまべちかなが)である。彼はなぜ、島津も退くほどの強大な敵に立ち向かったのか。国人たちはどのように戦ったのか。そして、九州人ながら秀吉に従い国人衆とあいまみえることになった若き立花統虎(宗茂)の胸中は……。
偽夫婦お家騒動始末記
紫紺
歴史・時代
【第10回歴史時代大賞、奨励賞受賞しました!】
故郷を捨て、江戸で寺子屋の先生を生業として暮らす篠宮隼(しのみやはやて)は、ある夜、茶屋から足抜けしてきた陰間と出会う。
紫音(しおん)という若い男との奇妙な共同生活が始まるのだが。
隼には胸に秘めた決意があり、紫音との生活はそれを遂げるための策の一つだ。だが、紫音の方にも実は裏があって……。
江戸を舞台に様々な陰謀が駆け巡る。敢えて裏街道を走る隼に、念願を叶える日はくるのだろうか。
そして、拾った陰間、紫音の正体は。
活劇と謎解き、そして恋心の長編エンタメ時代小説です。
【完結】月よりきれい
悠井すみれ
歴史・時代
職人の若者・清吾は、吉原に売られた幼馴染を探している。登楼もせずに見世の内情を探ったことで袋叩きにあった彼は、美貌に加えて慈悲深いと評判の花魁・唐織に助けられる。
清吾の事情を聞いた唐織は、彼女の情人の振りをして吉原に入り込めば良い、と提案する。客の嫉妬を煽って通わせるため、形ばかりの恋人を置くのは唐織にとっても好都合なのだという。
純心な清吾にとっては、唐織の計算高さは遠い世界のもの──その、はずだった。
嘘を重ねる花魁と、幼馴染を探す一途な若者の交流と愛憎。愛よりも真実よりも美しいものとは。
第9回歴史・時代小説大賞参加作品です。楽しんでいただけましたら投票お願いいたします。
表紙画像はぱくたそ(www.pakutaso.com)より。かんたん表紙メーカー(https://sscard.monokakitools.net/covermaker.html)で作成しました。

葉桜よ、もう一度 【完結】
五月雨輝
歴史・時代
【第9回歴史・時代小説大賞特別賞受賞作】北の小藩の青年藩士、黒須新九郎は、女中のりよに密かに心を惹かれながら、真面目に職務をこなす日々を送っていた。だが、ある日突然、新九郎は藩の産物を横領して抜け売りしたとの無実の嫌疑をかけられ、切腹寸前にまで追い込まれてしまう。新九郎は自らの嫌疑を晴らすべく奔走するが、それは藩を大きく揺るがす巨大な陰謀と哀しい恋の始まりであった。
謀略と裏切り、友情と恋情が交錯し、武士の道と人の想いの狭間で新九郎は疾走する。
吉原遊郭一の花魁は恋をした
佐武ろく
ライト文芸
飽くなき欲望により煌々と輝く吉原遊郭。その吉原において最高位とされる遊女である夕顔はある日、八助という男と出会った。吉原遊郭内にある料理屋『三好』で働く八助と吉原遊郭の最高位遊女の夕顔。決して交わる事の無い二人の運命はその出会いを機に徐々に変化していった。そしていつしか夕顔の胸の中で芽生えた恋心。だが大きく惹かれながらも遊女という立場に邪魔をされ思い通りにはいかない。二人の恋の行方はどうなってしまうのか。
※この物語はフィクションです。実在の団体や人物と一切関係はありません。また吉原遊郭の構造や制度等に独自のアイディアを織り交ぜていますので歴史に実在したものとは異なる部分があります。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる