47 / 129
五段目
忍苦の場〈弐〉
しおりを挟む多喜の目に、数日前と寸分変わらぬ反物のままの木綿地が映った。しかも、二本ともだ。
「……そなたは、わたくしの申すことが聞けぬと云うのだな」
今の今までわなわなと細かく震えていた唇が、なぜかぴたりと止んだ。
だが、怒りが鎮まったわけではない。むしろ、逆である。人と云うものは、怒りが頂まで達すると、却って抑えた声音になるものだ。
よって、聞く者にとっては心の臓が凍てつくほど、凄まじく恐ろしい響きとなる。
「も…申し訳ありませぬ」
美鶴は、板の間に額を擦りつけて謝った。
さりとて、美鶴とてなにかしらやろうとは思ったのだ。
まずは女物からと思い、自らの紺絣の着物を広げて、どのような布地の裁ち方をすればよいかを考えてみた。されども、もし間違った裁ち方をしてしまったなら、もう布地は元には戻らない。
ゆえに、どうしても布地を裁てずにいた。
「……ゆ、浴衣の縫い方が……わ、わからぬゆえ……」
美鶴は「なんし」という廓言葉を決して出さぬようにしつつ、なんとか申し開きした。
「そないな歳にもなって、まだ浴衣の一つも縫えぬのか。十歳になるかならぬおなごですら縫えようものを、そなたは縫えぬと云うのか」
多喜は信じられない面持ちで呟いた。
町家や百姓家に生まれたおなごはもちろん武家の娘ですら、よほどのことでもない限り人には頼まず、自分や身内の着物はおのれで縫うのだ。
そのため、どの母親も娘にはしっかりと教え込んだ。嫁入りのための、いろはの「い」であるからだ。身分が違えども、娘が縫い物のできぬのは「母親の恥」と云われた。
「いったい諸藩の下屋敷とやらは、如何なる女子を育てておるのか。……嘆かわしいにも、程があろうぞ」
諸藩の下屋敷でも、女子であらば縫い物をするだろう。
多喜には知るよしもないが、まったく針が使えぬのは、それこそ廓の妓——「遊女」くらいだ。
さような廓でも、実は女郎であれば細々とした物までお針子に頼むのは気が引けるため、おのれで繕い物くらいはしたのだが。
「御公儀より、旦那様が賜った大切な禄で手に入れた布だというのに……危うく、そなたのごとき無骨者に台無しにされる処でござったわ」
塵芥でも見るかのような目を美鶴に向けながら、多喜は二本の木綿地を拾い上げた。
「……この役立たずめがっ」
改めて、美鶴は板の間の床に深く伏した。
「申し訳ありませぬ……申し訳ありませぬ……」
この言葉以外、詫びる文言は知らない。ひたすら、謝り続けるしかない。
多喜は、夜叉もかくあらんやと云う目でその姿を一瞥し、すぐに縁側の方へ顔を逸らした。
無言のままであった。ものを云う価値すらない、という胸の内なのであろう。
そして、暗い消炭色の木綿の着物の裾を翻し、縁側に出た。
真っ白な足袋がちらりと見える。足袋を履くのは、武家の証であった。
一応、諸藩の下屋敷育ちということになっている所為か、美鶴にも白足袋が与えられている。武家として、重んじなければならぬ体面だけは整えられていた。
だが、町家も百姓も、庶民は概ね素足である。廓に至っては、真冬であってもなにも履かない。美鶴も「舞ひつる」だった時分は、年中素足であった。
結局、一言も声をかけることなく、多喜が立ち去って行く。
後ろに控えていたおさとが、あわててそのあとを追う。おさとは素足だった。
二人の姿が廊下の先へ消えていくまで、美鶴は頭を垂れ続けた。
0
お気に入りに追加
76
あなたにおすすめの小説
天竜川で逢いましょう 起きたら関ヶ原の戦い直前の石田三成になっていた 。そもそも現代人が生首とか無理なので平和な世の中を作ろうと思います。
岩 大志
歴史・時代
ごくありふれた高校教師津久見裕太は、ひょんなことから頭を打ち、気を失う。
けたたましい轟音に気付き目を覚ますと多数の軍旗。
髭もじゃの男に「いよいよですな。」と、言われ混乱する津久見。
戦国時代の大きな分かれ道のド真ん中に転生した津久見はどうするのか!?
永き夜の遠の睡りの皆目醒め
七瀬京
歴史・時代
近藤勇の『首』が消えた……。
新撰組の局長として名を馳せた近藤勇は板橋で罪人として処刑されてから、その首を晒された。
しかし、その首が、ある日忽然と消えたのだった……。
近藤の『首』を巡り、過去と栄光と男たちの愛憎が交錯する。
首はどこにあるのか。
そして激動の時代、男たちはどこへ向かうのか……。
※男性同士の恋愛表現がありますので苦手な方はご注意下さい
花なき鳥
紫乃森統子
歴史・時代
相添はん 雲のあはひの 彼方(をち)にても──
安政六年、小姓仕えのために城へ上がった大谷武次は、家督を継いで間もない若き主君の帰国に催された春の園遊会で、余興に弓を射ることになる。
武次の放った矢が的にある鳥を縫い留めてしまったことから、謹慎処分を言い渡されてしまうが──
滝川家の人びと
卯花月影
歴史・時代
故郷、甲賀で騒動を起こし、国を追われるようにして出奔した
若き日の滝川一益と滝川義太夫、
尾張に流れ着いた二人は織田信長に会い、織田家の一員として
天下布武の一役を担う。二人をとりまく織田家の人々のそれぞれの思惑が
からみ、紆余曲折しながらも一益がたどり着く先はどこなのか。
富嶽を駆けよ
有馬桓次郎
歴史・時代
★☆★ 第10回歴史・時代小説大賞〈あの時代の名脇役賞〉受賞作 ★☆★
https://www.alphapolis.co.jp/prize/result/853000200
天保三年。
尾張藩江戸屋敷の奥女中を勤めていた辰は、身長五尺七寸の大女。
嫁入りが決まって奉公も明けていたが、女人禁足の山・富士の山頂に立つという夢のため、養父と衝突しつつもなお深川で一人暮らしを続けている。
許婚の万次郎の口利きで富士講の大先達・小谷三志と面会した辰は、小谷翁の手引きで遂に富士山への登拝を決行する。
しかし人目を避けるために選ばれたその日程は、閉山から一ヶ月が経った長月二十六日。人跡の絶えた富士山は、五合目から上が完全に真冬となっていた。
逆巻く暴風、身を切る寒気、そして高山病……数多の試練を乗り越え、無事に富士山頂へ辿りつくことができた辰であったが──。
江戸後期、史上初の富士山女性登頂者「高山たつ」の挑戦を描く冒険記。
トノサマニンジャ 外伝 『剣客 原口源左衛門』
原口源太郎
歴史・時代
御前試合で相手の腕を折った山本道場の師範代原口源左衛門は、浪人の身となり仕官の道を探して美濃の地へ流れてきた。資金は尽き、その地で仕官できなければ刀を捨てる覚悟であった。そこで源左衛門は不思議な感覚に出会う。影風流の使い手である源左衛門は人の気配に敏感であったが、近くに誰かがいて見られているはずなのに、それが何者なのか全くつかめないのである。そのような感覚は初めてであった。
鬼を討つ〜徳川十六将・渡辺守綱記〜
八ケ代大輔
歴史・時代
徳川家康を天下に導いた十六人の家臣「徳川十六将」。そのうちの1人「槍の半蔵」と称され、服部半蔵と共に「両半蔵」と呼ばれた渡辺半蔵守綱の一代記。彼の祖先は酒天童子を倒した源頼光四天王の筆頭で鬼を斬ったとされる渡辺綱。徳川家康と同い歳の彼の人生は徳川家康と共に歩んだものでした。渡辺半蔵守綱の生涯を通して徳川家康が天下を取るまでの道のりを描く。表紙画像・すずき孔先生。
狂乱の桜(表紙イラスト・挿絵あり)
東郷しのぶ
歴史・時代
戦国の世。十六歳の少女、万は築山御前の侍女となる。
御前は、三河の太守である徳川家康の正妻。万は、気高い貴婦人の御前を一心に慕うようになるのだが……?
※表紙イラスト・挿絵7枚を、ますこ様より頂きました! ありがとうございます!(各ページに掲載しています)
他サイトにも投稿中。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる