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五段目
忍苦の場〈弐〉
しおりを挟む多喜の目に、数日前と寸分変わらぬ反物のままの木綿地が映った。しかも、二本ともだ。
「……そなたは、わたくしの申すことが聞けぬと云うのだな」
今の今までわなわなと細かく震えていた唇が、なぜかぴたりと止んだ。
だが、怒りが鎮まったわけではない。むしろ、逆である。人と云うものは、怒りが頂まで達すると、却って抑えた声音になるものだ。
よって、聞く者にとっては心の臓が凍てつくほど、凄まじく恐ろしい響きとなる。
「も…申し訳ありませぬ」
美鶴は、板の間に額を擦りつけて謝った。
さりとて、美鶴とてなにかしらやろうとは思ったのだ。
まずは女物からと思い、自らの紺絣の着物を広げて、どのような布地の裁ち方をすればよいかを考えてみた。されども、もし間違った裁ち方をしてしまったなら、もう布地は元には戻らない。
ゆえに、どうしても布地を裁てずにいた。
「……ゆ、浴衣の縫い方が……わ、わからぬゆえ……」
美鶴は「なんし」という廓言葉を決して出さぬようにしつつ、なんとか申し開きした。
「そないな歳にもなって、まだ浴衣の一つも縫えぬのか。十歳になるかならぬおなごですら縫えようものを、そなたは縫えぬと云うのか」
多喜は信じられない面持ちで呟いた。
町家や百姓家に生まれたおなごはもちろん武家の娘ですら、よほどのことでもない限り人には頼まず、自分や身内の着物はおのれで縫うのだ。
そのため、どの母親も娘にはしっかりと教え込んだ。嫁入りのための、いろはの「い」であるからだ。身分が違えども、娘が縫い物のできぬのは「母親の恥」と云われた。
「いったい諸藩の下屋敷とやらは、如何なる女子を育てておるのか。……嘆かわしいにも、程があろうぞ」
諸藩の下屋敷でも、女子であらば縫い物をするだろう。
多喜には知るよしもないが、まったく針が使えぬのは、それこそ廓の妓——「遊女」くらいだ。
さような廓でも、実は女郎であれば細々とした物までお針子に頼むのは気が引けるため、おのれで繕い物くらいはしたのだが。
「御公儀より、旦那様が賜った大切な禄で手に入れた布だというのに……危うく、そなたのごとき無骨者に台無しにされる処でござったわ」
塵芥でも見るかのような目を美鶴に向けながら、多喜は二本の木綿地を拾い上げた。
「……この役立たずめがっ」
改めて、美鶴は板の間の床に深く伏した。
「申し訳ありませぬ……申し訳ありませぬ……」
この言葉以外、詫びる文言は知らない。ひたすら、謝り続けるしかない。
多喜は、夜叉もかくあらんやと云う目でその姿を一瞥し、すぐに縁側の方へ顔を逸らした。
無言のままであった。ものを云う価値すらない、という胸の内なのであろう。
そして、暗い消炭色の木綿の着物の裾を翻し、縁側に出た。
真っ白な足袋がちらりと見える。足袋を履くのは、武家の証であった。
一応、諸藩の下屋敷育ちということになっている所為か、美鶴にも白足袋が与えられている。武家として、重んじなければならぬ体面だけは整えられていた。
だが、町家も百姓も、庶民は概ね素足である。廓に至っては、真冬であってもなにも履かない。美鶴も「舞ひつる」だった時分は、年中素足であった。
結局、一言も声をかけることなく、多喜が立ち去って行く。
後ろに控えていたおさとが、あわててそのあとを追う。おさとは素足だった。
二人の姿が廊下の先へ消えていくまで、美鶴は頭を垂れ続けた。
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