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五段目
忍苦の場〈壱〉
しおりを挟む舞ひつるの「美鶴」としての新しい暮らしが始まった。
如何なる経緯なのかは未だ知らぬが、連れてこられた先は「島村」と名乗る御公儀の役人の御家であった。
五十坪ほどの家屋敷の中で、美鶴に赦された部屋は、乾の一番端だ。
朝はさっぱり陽が差さず、夕刻近くになってようやく西陽が届く、じめじめした場所にある。
さらに、敷地内にはさほど広くはないが中庭がしつらえてあるため、気晴らしに見てみようと思うにも、この部屋からでは端しか見えない。
所在なげに部屋から縁側に出た美鶴は、かろうじて見える庭の端を眺め、ほうっと深いため息を吐いた。
此処へは女中のおさと以外の者が来ることはなかった。
一応、美鶴のことを任されたといえども「御付きの者」というわけではなく、おさとにはほかにも細々とした仕事があるようだった。
ゆえに、「話し相手」になるような気配は、いっさいない。
だれとも話さずに日がな一日を過ごすことが、こないにも寂しくて侘しいことだなんて、知らなかった。
吉原では、廓の妓たちのだれかと絶えず話をしていたものだった。姦しかった禿の羽おり・羽おとの口喧嘩すら、妙に懐かしい。
身一つで参ったがゆえ、なにも持っていない。なにをすればよいのかも、皆目わからない。
——かようなことが、これより先ずっと続くなんしかえ。
そのとき、おさとが反物を二本抱えて渡り廊下をやってきた。
「御新造さんが、とりあえず男物と女物の浴衣を縫うように云ってなさるんで」
さように云って、木綿地の反物を差し出す。
『男物と女物』ということは……
——この家の主とその妻女の浴衣を縫え、ってことなんしかえ。
主はよほど御役目が忙しいのか、まだ美鶴の前に顔を見せたことがなかった。
そして、やはりあの「女」が主の妻女で、名を多喜と云った。
二人の間に子はおらぬようであった。
美鶴は木綿地を受け取った。
——はて、困ったでありんす。わっちは生まれてこの方、縫い物などしたことがあらでなんし。
針で指を傷つけるわけにはいかないゆえ、廓の妓たちは針仕事を禁じられていた。そもそも、見世の者が纏う着物の仕立ては、すべてお針子の仕事だった。
確かに身形だけはいっぱしの「武家娘」になった美鶴だが、中身の方はなに一つ伴っていなかった。
途方に暮れる美鶴を尻目に、
「針箱は其処いらへんにあるだろっから、探しておくんなせぇ」
と云って、おさとはさっさと出て行った。
実は、美鶴が寝起きするために与えられた「部屋」は、六畳間に古い箪笥などが押し込められた「納戸」であった。
納戸は、畳のない板張りの床だ。ゆえに、その上に煎餅布団を敷いて寝ると、朝起きれば身体が軋んで腰に痛みが走った。
苦界と呼ばれる廓の暮らしの方が、よっぽど心地よく思われた。
——確かに此処であらば、針箱と云わずさまざまな物が置いていなんし。
とりあえず、畳んで寄せておいた布団の隣にある箪笥から抽斗を開けていく。
人の出入りがなく、ずいぶんと長い間放ったままにしていたのであろう。とたんに埃が舞い上がった。袖の先で口元を覆って咳き込みつつも、乱雑に物が入った抽斗から、なんとか針箱を探し出した。
だが、しかし……
反物と針箱を目の前にして、美鶴はどうすることもできなかった。
゜゚・*:.。. .。.:*・゜゚・*:.。. .。.:*・゜゚
それから幾日か経った頃、多喜が怒鳴り込む勢いでやってきた。
「そなたは、浴衣一つ縫い上げるのに、如何ほどの刻を費やすつもりかっ」
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