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五段目
敵の陣屋の場〈弐〉
しおりを挟む船頭が漕ぐ舞ひつるを乗せた猪牙舟が、すーっと河岸に寄っていく。
どうやら、この辺りで舟から降ろされるようだ。
月も雲で隠れ、周囲は真っ暗闇ゆえに夜目はまったく利かない。よって、舞ひつるには此処が何処だかさっぱりわからない。
されども、やっぱりこの河岸で降ろされて、暗闇に足を取られぬよう気をつけつつ岸辺に上がれば、先刻とはまた違う駕籠舁きが待っていた。
ずしりと重い巾着は、とても袂の中には入れられないため、しっかりと抱え直してから、舞ひつるは新たな駕籠の中へと身を収めた。
そして、しばらく駕籠に揺られたあと、ある家屋の裏口に着いた。
其処で降ろされ、建物の中へと促される。やはり辺りは真っ暗で、夜目はまったく利かない。
建物から出てきた女中のような風情のおなごの手引きで、舞ひつるはある部屋に通された。
入った途端、黴臭さが鼻をつく。敷かれていた布団も、薄っぺらい煎餅布団なのは云うまでもなく、じめじめと湿っていた。
とても寝られる代物ではなかったが、いかんせん身体は疲れ切っていた。
舞ひつるは仕方なく横になり、目を閉じる。すると、瞬く間に眠気が襲ってきた。
ただ、胸にある重い巾着をしっかりと抱きしめて離さないこと以外には……何物にも逆らえなくなってしまった。
゜゚・*:.。. .。.:*・゜゚・*:.。. .。.:*・゜゚
目を閉じてから些かも経っておらぬというのに、ゆさゆさと揺さぶられたため、舞ひつるは薄目を開けた。
目の前で正座をした齢四十ばかりの見知らぬ女が、舞ひつるの肩を揺すっていた。
びっくりして、一気に目が覚めた。
辺りがすっかり明るくなっている。いつの間にか、朝が訪れていた。
あわてて布団から身を起こそうとすると、女が云った。
「参って早々、朝寝を貪るとは不届き千万」
人の妻であろう。丸髷に結った髪に、眉がしっかりと剃り落とされていた。きっちりとお歯黒が塗られたその口の中は、昨夜見た漆黒の闇のようだ。
糸のごとき細い一重の目に、顔の中央にずんぐりと居座った鼻、そして顋が張って四角い輪郭のその女は、いっさい化粧の手を加えていないためか、表情がなくのっぺりとしていた。
見目麗しき吉原の妓ばかりを見て育った舞ひつるには、とんと見慣れぬ顔であった。
思わず、まじまじと見てしまう。
「……初めて会うた者の面を、不躾に眺むるなどとは、重ね重ね不届き千万」
言葉はきついが、表情はのっぺりとしたままだ。般若のごとき鬼面で云われるよりも、この泥眼のごとき能面の方が、なぜか肝が冷えた。
「そなた、聞いておるのか。……美鶴」
いっさいの前触れもなく、いきなり女から呼ばれたその名は、舞ひつるの「真名」であった。
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